兵庫/養父② 遥かなる明延鉱山…
兵庫県養父市、「さくら祭の頃」に続く養父市の旅第2弾をお送りします。
(2015年12月現在)
前回記事は市の中心地であるJR八鹿駅からの歩き旅の形でお送りしていましたが、今回は八鹿駅からバス移動にてやってきた「明延」地区の様子です。
●今回の旅先
まずはJR山陰本線八鹿駅までやってきました。
この地図のほぼ最上部が八鹿駅で、今回の目的地はここからずっと右下の旧大屋町の「明延」(あけのべ)地区です。
この明延は、かねてよりずっと行きたい!と思っていた場所でした。まだ小学校低学年の時にこの地名を初めて見たのですが、社会科の副読本的な郷土資料にこの名がありました。
その時は「変わった名前…」ぐらいな意識しかなかったのですが、いつしか大人になってその事を思い出して、「そういえば、あの時本で見た明延ってどんな所なのか?」と思うようになり、それが「行きたい」に変わっていきました。
改めて調べると「すず鉱山で栄えた街」とあり、今はもう操業も停止(1987年)している、と…。幼少時見た資料は1970年代後半当時でしたが、まだ現役のすず鉱山として操業していた頃だったんですね…。
同じ県でありながら、なかなか容易に行けない場所でもあり、昨年末に実現するまでかなりの時を要してしまいました。ようやく行く計画も立てて(何しろ経路の本数が少ないので…)、満を持して向かう事となりました。
まず八鹿駅に出てくる自体に時間を要し、姫路⇒寺前⇒和田山…とJRを3度も乗り換えた挙句にようやく着いたのでした、県内でありながら…。
八鹿駅からはここに泊まっている「全但バス」で明延に向かいます。
右に隠れている部分にバスセンターがあり、待合室もあるのですが、バスが来たとかアナウンスはないし、待合室から見える所までバスも来なくて、定刻前になっても一切そんな気配がなく少々焦りました。
要はこの停まってる所へ随時乗りに来なさい方式だった訳です。そんな事も知らず、危うく黙って見過ごすところでした。アナウンスぐらいあってもいいと思いますが…本数少ないのに。
ちなみに明延方面へのダイヤ的には、1日に8本くらいしかなかったので、事前調査は不可欠でした。朝の5時台前半から地元を発って、ここの8:30発のバスに乗れるようにやってきました。
「明延」行のバスで終点まで、所要1時間強で運賃は¥1,090でした。
山道にも結構入ってなかなかの車窓風景でした…
終点明延です。
こののりばは実は帰りの時のものですが、着いたのは下側の写真の建物のすぐ左側方になります。この広場隔てて向こうにも同様ののりばがあり、やはり八鹿駅方面のもので、時期により微妙にのりば位置が違う不思議な事になっていました。
鉱山の街だけあって、周囲ビッシリ山なのですが、それにしても閑散としていました。かつては鉱夫立ちで賑わい、4,000人余りの人々が暮らしていたといいますが、今や見る影もなく、街を歩いている人などほとんど見かけませんでした。それもそのはずで、今は最盛時の3%ほど、人口わずか120人ほどの集落になってしまっているといいます。
人で賑わっていた様子が、廃墟群を来ると分からなくもないですが、なんとなくの想像しかつかず、この旅を通してゴーストタウンを徘徊してるようにしか思えませんでした。
明延バス停に停車する隣の建屋ですが「あけのべ憩いの家」という施設で、地区のシンボル的な存在です。10:00~16:00に開いているとの事ですが、この時は年末も押し迫った12/30だったせいか、10時を過ぎても開いてませんでした。
上の写真にも写っていますが、あけのべ憩いの家の真ん前にある「明延の一円電車」です。
この明延鉱山で走っていた「鉱山電車」であり、乗車料金が一円であった事から、このように呼ばれています。
1945(昭和20)年に鉱山従業員の通勤用として走っていたもので、1987(昭和62)年の閉山時に廃止(運行自体は昭和60年11月まで)されたといいますが、ここ明延鉱山から神子畑(みこばた)選鉱場まで約6kmの区間をガタンゴトンと運行されていたそうです。明延は錫鉱脈が発見され、錫の採掘、神子畑は選鉱場としての分業体制が取られていました。
この電車は「しろがね」という名前がついていますが、他にも黒金とか赤金という名の電車がありました。
しろがねに続いてのくろがねです。あけのべ憩いの家の斜め向かいに位置する小高い丘の上にある一円電車で、こちらは建物と屋根に収まった形で保存されています。
この全体的に淡くてカラフルな配色とまん丸いフォルムがなんとも印象的な車体、そしてこれに続くレールが延々と。このレールがつくられる風景はドキュメント形式で、建屋の外側に写真パネルとして出ていました。
車内の様子もなんとか撮れました。なんともシンプル、でもこんなのに乗って通勤してたんですね。
2010年に長さ70mの路線として見事な復活を遂げた「一円電車明延線」。
鉱山で最後まで使われていたのがこの車両「くろがね号」だそうです。昭和24年頃の製造という事で、36年間活躍していた事になります。
4~11月の第1日曜日の10:00~15:00にて体験乗車会が行われ、70mの線路をゆっくりと走っていくそうです。
通勤や旅行だとこんなタイプの電車はとてつもなく疲れそうで敬遠してしまいますが、ゆっくり走る中をこんなシンプルな電車に乗ると、とても気分良く感じるのは不思議なものです。子供が乗り物に乗るような気分なのかな、と。
鉱山従業員の娯楽・集会施設であったという建物です。
昭和6年に初代の建物が建てられ、現在残っているこの建物は昭和32年築だそうです。
延べ面積1122㎡、収容人員は1,150人にのぼり、往時は有名芸能人や一流歌手等が来演した、とありました。
駆け出し時代の故・島倉千代子さんも昭和33年にここに来た事があり、その時の縁で、その後すっかり閑散となってしまった2009年、「一円電車復活を応援したい」という想いで実に51年ぶりに無料コンサートの形で再演に駆けつけた(1991年にも撮影で訪ねた事はあるそうですが…)そうで、その時の映像がありました→コチラ
電車の復活はその翌年になりますが、その3年後に島倉さん自身が亡くなってしまいますが、その時にはこの地域の方が哀悼の意を表するメッセージの記事がありました。
また毎日のように最新の映画も上演されていたとの事で、この地区には往時映画館があったといいますが、ここの事だったのでしょうか。
今はコンビニも食べる所もまともにないような集落ですが、往時の雰囲気を体感したいものです。
あけのべ憩いの家の広場を隔てて向かいにある、この写真の向こうの建物、「MMCリョウテック」という会社の建物です。
超硬合金を使っての耐摩耗工具の製作を主としている会社のようですが、かつては「明延精工」という名前だったのが、現在の会社に2007年に吸収合併されています。この明延地区で唯一といっていいほどの会社然とした所です。
これまた明延で唯一といっていいほどの金融機関です。
この辺りでは銀行は全く見られず、郵便局もここにあったのが確認できたのみでした。まだこの辺りは明延バス停より歩いて程ない距離で、人とすれ違う事がは皆無ながら、まだ人の気配も多少感じるような場所でした。
もう少し観光客が居るのかな、と思いもしましたが、バスから降りたのは自分一人だけだったし、ホントに人とすれ違う事がなく、集落の家周りを手入れしている方数人を見かけたぐらいです。
鉱山で栄えた街はいま、往時とケタ違いの人口になる事を余儀なくされましたが、ここまで割合の落ちた所もそうそうないのでは?と思います。それだけに訪ねた事自体が愛おしがった、というのもありました。
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