島根/飯南④ 赤名宿とエンターテイメント衣掛
島根県飯石郡飯南町、島根/飯南③ 24年ぶり赤名へ!に続く飯南町の旅記事第4弾で、飯南町の記事はひとまずこれが最後です。
(2016年8月当時)
今年盆旅の様子をupしていくもまだ初日の分しか上げられず、気がつけばこれも去年の旅の様子となってしまいました。当ブログの中では鮮度の高い方ですが(^_^
●橋を渡れば…
という事で、前記事では主に赤名バスセンターを中心とした国道54号線上の主要施設についてのお届けでしたが、今回は国道をそれて、この橋を渡ったところから始めたいと恵思います。
ちなみにこの橋は「下市大橋」という事で、これでも一応”大橋”です。
これを渡る手前は国道54号で、渡った先は赤名宿として栄えた街並みを垣間見られる住宅や商店のエリアとなります。
橋を渡った先は国道54号と川を隔ててほぼ平行に通っていて、この記事はこの通りに沿う形でお送りしていきますが、まずはこのカットにて。
国道沿いの方は交通機関や役場、道の駅などの主要施設がありますが、ここでは商店や住宅、金融機関もあります。ただコンビニに関しては国道も含めこの辺りでは皆無でした。
上の写真から少しだけ進んで、反対側から撮ったものです。
右側の建屋の横からの様子がこんなに素晴らしいものだったとは!板張りが高く続いていってて実に見事でした。こういうの見ると、いつ建てられたんだろうコレ?と思ってしまいます。
アプリで人の顔を解析?して「何歳」とか年齢を出すものが一時期流行っていましたが、これ建物版ってないかな?と思ってしまいます(笑)
ともあれ、この道を道なりに向こうへ進んで行きます。
大森銀山道の道標という事で足下にありますが、説明板が設置されていました。
同じ飯南町のかつての町の中心地であった頓原の中心道ではこういったものに出くわせませんでしたが、ここ赤名はれっきとした宿場町だけあってこのようなものも見る事ができます。
大森銀山道は大田市の温泉津(ゆのつ)を起点にして、現在の広島県や岡山県に繋がっていきますが、ここ赤名は広島県へ繋がる国境の役割を果たしていたのでしょう。この国境には赤名峠があったので。
道標には「左は石州さけ谷 大田 大もり五百らかん」とあり、別の面には「右ハとん原 まつえ 大やしろ一ばた」と刻まれていて、安政三辰二月とあり、1856年につくられたとされています。大やしろ、というのは大社の事ですね。「石州さけ谷」というのがいくら調べてもサッパリ分かりませんでした。
先程の道標のところを左折して、街道の面影をたどり続けます。
この道にはSNACKがあります。町役場からは坂を下りて道と橋を渡って道なりに進むと行き着くところなのであるいはこういう所で憩いの時を…とか想像してしまいますがその辺はよく分かりません。ただ娯楽のスペースはどこかにあるはずだとか思ってついつい探してしまいます。どんな田舎でもこういう所が必ずある、というのが今まで色々巡ってきて思う所ではあるので。
上の写真の通りの左向こう側の斜面にこの頌徳碑といくつかの石碑が建てられていました。
梶谷先生に関しては、説明板もつけられていましたが、ネットで調べてもどんな人物か全くわからず、この説明板にある事がすべてという感じです。
これによれば、梶谷金三郎は赤名冨屋梶谷家三代とあり、1866年生まれで1949年に82歳で没していますが、明治14(1881)年に赤名小学校に就任し、大正5(1916)年まで30年余りにわたってこの町で教育の基礎を確立された、とあります。
15歳で小学校の先生??と思いましたが50歳過ぎで退官??人生50年時代だとすれば無理からぬ事かなと。この間明治44(1911)年には島根県知事表彰、大正4(1915)年には文部省の表彰を受けています。昭和10(1935)年に建立とあり、氏の生前にこれはもうできていたんですね、これもなかなかビックリものでした。
左折右折を繰り返した道も、ここからはまっすぐ続いていきます。
やはり人家と商店が共存する形ですが、ここにこうして商店が営業し続けているという事は、住民のニーズの元に成り立っているという事なのかな、と感じます。
まっすぐ続く道から横へそれると、お寺へ続く道があるというのがここの通りのひとつのパターンでもあります。
突き当たりにはお寺の山門がそびえていますが、これが木製の上半分がガッシリした立派なものでした。
境内に入ってのカットですが、良田山明窓院という名称です。
曹洞宗のお寺だそうで、その歴史は1451年から始まるとか。
島根県では東は出雲、西は石見と分かれる中で、この地方はどちらかというと出雲かな?というところ(かなり真ん中に近い)で、石見のようなオレンジ色の瓦(石州瓦)ではなく、やはり出雲地方なのかな?と思わされました。石見でもすべてオレンジ屋根という訳ではないでしょうが、行った限りでは結構多い印象はあります。
街道から横道それるとお寺に入るというのが何ヶ所かあるパターンとして滋賀県湖南市の石部の通りを思い出します。ここも宿場町で栄えたところで、街の構造的に似た感じでした。
大きな家が立ち並んでいて、オレンジの石州瓦屋根の住居も結構目立ちます。
この風景は何十年くらい変わってないのだろうか?とか考えて歩くと楽しいなと思います。戦前、大正期、明治の頃はどんな建物だったんだろう?とか、江戸時代の宿場町として機能していた頃はどんな建物でどの程度密集していたのかな?とか、いろいろ考えると楽しいのでこういう所を歩くのが好きなのかな?と思いますが、それがもっと具体的にイメージでき~もっといいだろうな?と思います。当時の写真というのは都市部はあっても地方のものはあまりないんですよね…。映像となるともっと少ないので、想像力が頼りです?!そんな中で、昔の写真サイトが見つかりました →コチラ
ただ、ここの場合は大正8(1919)年の大火で街の大半が焼失するという事故が発生し、これ以前の面影はほとんど残っていないのだそうですね。逆にそれでもその後復興してこのような立派な家並みが形成されているのは対応力があり、各々100年近くぐらいの歴史は有しているのかな?というのは感じさせてくれます。
●赤名宿
通りを歩いていて、初めて「赤名宿」の名前に出くわしました。
明治初期で家数150程度で600人ほどが居たそうです。
この街道を歩き始めた地点は「赤名下市」バス停付近でしたが、ここは中市。飯南町営バスの標識ですが、ちょっと簡易な感じです…
赤名方面と頓原方面にそれぞれ1日6便出ています。赤名方面といってもここから歩いて行けるレベルですが…。
割に重厚な建物の多い中で、異彩を放っている感じだったのがこのお店です。
といってもいかにも昭和風のお店ですが、華は感じますね。かつては色んな人たちがこの店先を賑わせたのでしょうか?などと想像してしまいますね。
また、このお店から宅配荷物を送る事ができるという事で、その意味では重宝されているのかもしれません、この辺りはコンビニがないので、かなり重宝しているかもです。
通りの中に金融機関がありました。
頓原の町でもごうぎん(山陰合同銀行)がありましたが、ここの通りにもありました。宿場街の通りにこうしてあるという事で、この通りが街の中心的な部分にあたるという事が感じ取れます。
隣の建屋には赤名宿本陣跡の碑がありました。
肥後屋という所に本陣が置かれていたようで、その屋敷がこの周辺にあったようです。「銀山街道」とある通り、石見銀山から運上の銀や銅が運ばれ、その規模は人夫400人牛馬300頭の大所帯であったようです。その銀銅の受け渡しで賑わったという訳ですね。ちなみにあの伊能忠敬も測量の途中で肥後屋に宿泊した記録が残されているそうです。
更に進んでいくと、赤名宿についてきっちりクローズアップしたものがありました。
説明板によると季節ごとに大きな市が開かれ、その度毎に遠方からも人が押し寄せた、とありました。またこの辺りの道筋は当時の様子を概ね留めたもので、火災後の復興時にそのようにした旨が記載されていました。
瀬戸山城の城下町として形成されたというのが元で、一国一城令が発せられても国境という位置的な重要性ゆえか、城の番が派遣されて麓に侍屋敷が立ち並んでいたとも。銀の荷継ぎ行程が広島側の国境である布野から三次まで延長されると(その距離が延びるので)、ここの業務負担が増大し、負担軽減の訴えを起こした事なども記されていました。
これも宿場街の通り上にありました。
そろそろこの辺りで建物が立ち並ぶエリアも途切れていくかな、というのが見えてくるぐらいの所にありました。
車体前面に「いーにゃん」というゆるキャラの顔面がのせられています。
頓原から赤名まで町営バスに乗りましたが、全く無音であった事はなかなか忘れそうにないと思います。
夢街道ルネサンス推進会議なるものが「夢街道」として認定されており、その認定証が飾られていました。表には酒樽も!
赤名の本局、今では飯南町の中心局という事になるかと思いますが、こじんまりとした規模の局でした。建屋も昔ながらですね。
これはかなり街道の通りも終わりというところですが、廃屋とみて間違いないような家が目立ってありました。解体の予定もないのか分かりませんが…。
こういう家屋見ると、この家はいつまで人が住んでいたんだろう?とすぐ考えてしまいます。よく観光地で旧家の実物展示みたいなのがあって、往時の暮らしを伝えてくれるのですが、昭和の庶民層の…というのがなかなかなくて、逆にこういった家屋を材料に往時の暮らしをを学ぶことができないか?という事はかなり思うところではあります。
街道をずーっと歩いてきて、ひとしきり見たところで右折して、再び国道54号へ戻ってきました。この向こうへ行けば赤名バスセンターへ至りますが、ちょうどぐるっと一周しようかというところです。
「島根和牛の本場 飯南町」としてデカデカと塔がつくられていました。「飯南町」のぶぶんだけきれいになっていたので、元々は古くにつくられていて、赤来町→飯南町へ貼り換えた事が簡単に分かってしまいますが。
国道54号でありますが、184号も被っています。
更にバスセンターへ近づいていくと、この衣掛橋に差し掛かります。
記事タイトルに「衣掛」としていますが、この辺りの山が衣掛山という山で、瀬戸山城もこの山にあり、赤名の起源となる「赤穴氏」が支配していたといいます。
記事タイトルにした「衣掛」はこの建物の事です。
赤名バスセンターの向かいに建っている、宿あり食事あり温泉ありの赤名ひいては飯南町きってのエンターテイメント施設です。
バス便の都合もあり、ここに3時間居る事となったので、歩き回った後にここを利用させて頂く事としました。
という訳で、早速入ってみました。
入った先のフロントで入浴したい旨を告げて、450円+貸バスタオル代を払って、エレベータで最上の5Fまで。
5Fがまるまる温泉スペースで、休憩室を挟んでこのような大浴場へ。
他に誰もいない1人だけの貸切状態であったので、このように撮らせて頂きました。
お風呂はこの大浴場だけで、露天も他の風呂もサウナもありません、まったくの1種類です。この地でお風呂に入れるだけよしというものかなと。完全にガラス張りで外の景色が良く見えるのは素晴らしかったです。
風呂から上がると、隣の休憩室へ。
真ん丸窓から街の景色を眺める事ができます。向かいはバスセンターなので、その辺りの景気はよく見えますが…。
手前に自販機があり、向こうに足つぼのマッサージ機があり、いちばん奥には身体のマッサージ機があります。右奥は小さなテーブルと座布団、小さなテレビがあります。
1団体が来たらすっかり埋まってしまうようなスペースで、この時も足つぼをやっていたら家族連れがやって来て、机周りのスペースは埋まっていました。盆時期でもありかなり空いていたようですが、年間どの程度の方々の利用があるのか気になるところでもありました。
街道歩きと衣掛の施設利用が今回記事の中心ですが、この写真は国道54号と街道通りを結ぶあたりのひとつです。交通が不便が故に逆に昔の雰囲気を維持した街並みになっているのかとも思い、放置された部分もありますが、人の手で維持された部分は立派なものだと感じました。
になりますが、これは赤名酒造の「絹乃峰」(きぬのみね)の酒蔵周りです。
1929年創業でもうすぐ90年になろうかという歴史をもっており「米の味わいがしっかりあるお酒」と評されています。後継者がいない為廃業を予定されていた、とありましたが、後継者が出て継続となっているようです。
こういう業種の後継者問題もありますし、街並みを見ていても立派な家ばかりで、それぞれについて後継者問題とかあるのかな?と考えさせられました。人口流出も少なからずで今に至るのかな…とも思ったりしますが。
そんなこんな色んなもの見て赤名バスターミナルで詰所のおばさんに色々お世話になって、ここ赤名および飯南町を後にしました。なかなか行けなかったのですが、アクセスに苦労しつつ訪ねた甲斐はじゅうぶんにありました。
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