宮城/多賀城 古代の香りを今に…
宮城県多賀城市、JR国府多賀城駅からの歩き旅です。
(2017年5月当時)
●特別史跡 館前遺跡
国府多賀城駅前にある看板です。
多賀城跡の南東200mの台地上にある遺跡です。政庁跡との距離は600mとありました。また多賀城廃寺とは500mの距離で、政庁と廃寺を結ぶ形で存在していました。
この遺跡から見つかったものは9世紀前半に存在していたものとみられています。
多賀城といえば、日本屈指の古代城柵跡として有名ですが、この遺跡は多賀城に赴任した国司の館跡とみられているというような事が記されています。
9世紀初めといえば西暦800年そこそこで、平安時代に入った頃ですね。都が奈良から平安京に移った後で、この看板の下には復元模型がありますが、こんな立派な建物をつくる技術はいつから日本人に、人類についたのだろうか?と考えさせられます。
案内看板が出ていますが、この柵は駅の敷地との境のもので、ちょうど駅の柵の端っこから、この右端にある細い通路が多賀城跡への入口になります。ホントに駅前です。
しかしこんな端っこから始まるなんて、裏道っぽくでオープンな観光地ではないのかな?という感覚を受けてしまいました。
駅の敷地の端っこからコソッと入るような感じで、細い通路を通っていき、そこからバックにある駅へ振り返ったカットです。駅の真ん前に遺跡敷地がある事が窺い知れるかと思います。
駅の近代的な建物と遺跡のマッチングした不思議な空間である事を感じます。
多賀城跡の敷地へ。
駅からの通路からはこんな景色です。
派手な建物やらが並び立っている訳ではなく、緑が広がる一帯という感じです。
多賀城は、今でこそ仙台にその座を譲っているようなところがありますが、奈良~平安期は東北地方の政治や文化の中心地だったといわれています。
大和朝廷が蝦夷を征伐する際に置かれた軍事拠点で、その始まりは724年と伝えられています。
10世紀後半ごろには衰退し、維持管理されなくなりという事で廃れていったといわれています。西暦でいうと900年代の後半ですが、歴史教科書レベルではこれといって特にない時期かな、という印象です個人的には。藤原氏が栄華を誇っていた時期ぐらいな感じですね。そんな頃にここは廃れていった訳ですね。
遺跡周辺の様子です。
外から見たら丘になっているのも分かりますし、そんな所から間近で電車が通っていくのも見えます。
青い空とみどりの草むらのコントラストの実に効いたカットになっています。雲もいい感じで引き立ててくれました。こうして写真を撮る時に、雲というのは非常に重要な存在で、雲ひとつで素晴らしいカットになるか糞カットになるか?ではありませんが、本当に左右されるなというのを最近特に感じます。
丘にある遺跡の部分を一段落した後はこの道を通って政庁跡へ。といってもグラウンドの横みたいなとこを通っていきますので、古代の雰囲気は一旦寸断された気がしました。
遺跡といっても何かがある訳ではありません。緑の大地に建って往時に思いを馳せるのみというところでしょうか。何もない事が空間として贅沢、といえるかもしれません。
グラウンド横を抜けた後は、普通の路地へ。
向こうの十字路を越えていきます。
一連のエリアというより完全に別の所へ行くような気分でした。
標識に沿い進んで行きます。
すっかり公園敷地内の自然あふれる景色にやって来ました。
ちなみにこれを撮った時期は昨年のGW期間中の正午ごろです。そんな状況で、こののどかさはすごいです。観光客なんてホント居やしませんでした。
極力人の居ない時を狙ってこういう風景写真を撮るようにしていますが、ここはその心配もせずにその時々の想いで撮っていて、観光客で溢れる街では少なくともないとみて良いかと思います。確かにちょっとGWの谷間のような日ではありましたが。
多賀城碑のカッコ書きとして、このように書かれていました。
歴史で有名な坂上田村麻呂(758-811)が大きな石に矢尻で記したものとして、後に江戸初期に発見される事となりますが、その間に多くの歌人がこの「つぼのいしぶみ」について詠っており、その多くが「遠くにあるもの」「よく分からないもの」という内容であったようです。
田村麻呂を語る時に「征夷大将軍」の言葉がついて歩き、最初の征夷大将軍みたいに向きもありますが、初代は大伴弟麻呂(おとまろ)という人物が最初で、田村麻呂はつづく2代目となります。
また「征夷」とつくので「蝦夷を討伐する」意味合いでつけられた役職と思われ、一定の東北平定がなされてからは廃れていったようですが、鎌倉から続く武家政治での「将軍さま」はまた征夷大将軍と呼ばれるようになり、元々の意味と合っていない形ですね。
とにかく、多賀城関連敷地をずっと歩いていてようやくこのようにハッキリした、有形のモノに出会えました。分かり易く歴史を感じ取る事ができるというものですね。
カッコ書きとして「萩大路」と記されていました政庁への道で古代都市「多賀城」のメインロードでもあったといいます。
元々はこの辺りはコスモスやポピーの植樹で道路を形成していたといいますが2011年の東日本大震災にて、それが崩れてしまい、今は「みやぎの萩」を植樹して道路として標示しているとの事で、その震災当年である2011年にグッドデザイン賞を受賞しています。
この道を通り、石段を上って行きます。正確には「石のくっついた坂道」ですが。
という訳で階段を上った先には、この政庁跡がありました!当時の政治の中心地です。
ここが多賀城跡観光においてのメインの場所と思いますし、分かり易く歴史遺産を観光できたと感じられる場所でもありました。
外郭南門跡でもありましたが、ここも二重の屋根で復元イメージされており、これも誇張ではなくこのようなものと考えられてもおかしくないと思います。しかし当時の技術はある意味今よりすごかったのかもですね。機械がある訳ではなかった中、いわば手造りで建物をつくっていたというその方に感嘆してしまいます。色ももしこの通りであったとすれば、それもまた素晴らしいですね。
最後は癒しの景色を。
特に観光において何という事が表現しづらく言葉で語り切れませんが、こういった癒される景色に出会うのも旅の醍醐味でありまして、非日常でもあると思います。日常があるから非日常がありで。
多賀城跡観光一択でやって来たこの国府多賀城駅ですが、これを見て興味をもつ方がおられれば幸いです。
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