兵庫/三木 三木合戦とナメラ
兵庫県三木市、神戸電鉄/三木上の丸駅からの歩き旅です。
(2015年10月現在)
▼2枚写真を載せていますが、いずれも三木上の丸駅前すぐの様子です。
(上)2015年当時
(下)2007年当時
若干撮っているアングルが違いますが、いずれにしても駅前広場スペースが皆無で、いきなり道路です。強いて言えば道路幅が少しだけ広がっていますが、これはバスが停まるために広げられているだけのものです。
この8年間で基本変わっていませんが、「室山書店」という本屋さんの表看板のペイントが変わっていて、ピビッドな空色になっていました。
▼これまた2枚写真を載せていましたが、駅を出てすぐの道を左へ進んですぐの所に、この「ナメラ商店街」の看板があります。
手前には「ようこそ三木合戦の地へ」の言葉と共に派手な武将のイラスト看板があり、インパクト大でした。
三木上の丸、という駅名が示す通り、城郭要素の強いエリアで、ここを越えるとすぐに三木城跡があります。
戦国時代での秀吉の壮絶な討伐のひとつに「三木合戦」がありますが、ここがまさにその場所という事です。そんな事を思いつつ、このゲートをくぐりました。
ちなみにナメラとは、ここのかつての町名が「滑原」であったことからきているそうです。今は本町の地名になっていますが、地名として消えてしまった名前が商店街名として残っているのは良い事ですね。
そこには「湯の山街道」の看板も出ていました。
三木には温泉はあれど、昔からの温泉地や温泉街的なものはないのでは…??と思っていましたが、ここでいう「湯の山」とは有馬温泉(神戸市)の事で、ここ三木から有馬温泉までの道をこのように呼ばれていたといいます。
▼上の写真では、ゲートをくぐってすぐ右側の様子でしたが、こちらはその向かいで、ゲートをくぐってすぐ左側です。
くぐるとすぐ左側には三木城址への階段があり、こんな駅近くに城址があるのか!という感じでした。
兵庫県でも姫路城や明石城みたいに観光客で賑わう、という事は正直なく、割とひっそりしていますが、それだけに手つかずの歴史を感じられる場所ではないかと思います。
こんな高い所にあるのか、と
城壁がずっと続いているのがここからでも見えます。
ここから三木城址内の様子は2007年当時のものです。
2015年に再訪して街の方は歩いたのですが、この階段上にある城址は2007年に訪ねたきりなので。(階段上るのしんどかったんで、一度行ったしいいや、がホントの理由です…)
人っ気も皆無で、塀が続いたりはしていますが特定の建物がなく、丘の上に広場があり、あとはただ樹木が広がる感じでした。
▼お堂はありましたが、お城のあった当時のものではないと思います。
稲荷神社もありました。
三木城跡についての説明と、復原図とです。
築城は1492年頃とされていますが、16世紀になると戦禍に巻き込まれる事多々で、そしてやはり「三木合戦」は秀吉による「三木の干殺し」はあまりに有名で、その舞台となってしまい、そして江戸初期に一国一城令で廃城となりました。
当時の廃材は、明石城に使われる事となったといいます。
▼三木合戦の当時の三木城主・別所長春(べっしょ・ながはる=1558~80)公の像がありました。
別所長春は豊臣秀吉と対戦しましたが、元は秀吉と同じ織田軍の武将でした。
ただ中国地方の毛利軍平定の際に、信長軍として討伐に当たったのが成り上がりの秀吉である事に不満を覚え、反旗を翻したとありました。
秀吉に抵抗して一度は攻勢に転じた事もあったものの、2年にわたる兵糧攻めに遭い、遂には城兵たちとの命と引き換えに自害して果てたといいます、享年23。一族の責を負うにはあまりに若すぎた年齢ですが、これがやはり戦国時代の現実ですね。
丁度神戸電鉄の線路が入っているのを真ん中に、その周辺の様子がよく見えました。
昔ながらのゴツゴツした屋根の家屋も目立ちますね。
▼三木城跡をひとしきり見てきて、階段を下りてきたところです。
さて、ここから向こうへと街歩きをはじめます。
のっけからやってなさそうな店が並んでるなぁ、と思いつつ歩き始めました。
▼商店街を進んで行って、アーケードのある所へ出くわしました。
シャッターの下りた店も多いですが、時々開いている店も見受けられました。
そんな状況で、屋根はしっかり維持されているようでした。商店街として機能しなくなると、アーケードまで取っ払われる街もありますが、ここはまだ持ちこたえていました。
商店街の道幅の狭さもまた、古き時代を思い起こさせるようで良かったです。これもまた一つの観光かなと。
▼さらに続いていくアーケード商店街です。
看板がメンテされている感じで綺麗で、シャッターの下りている所はイラストが描かれていたりしていました。
土曜日の昼間でしたが、土曜休日のお店がなければ、開いている店がほぼそのまま現役のお店で、そうでないところがもうやっていないところかな、と思いますが、半分やっているかどうか(多分半分以上やっていない)…だった気がします。
日々どのくらいのお客さんがこの界隈でものを買い求めて、どのくらいのお金を落としていっているのか?気になります。残念ながらここを通った時にお金一円も落としていきませんでした。買いたいと思えるものもなかったのですが。
ここは明治の終わりころに馬車道がつけられ、沿道に家屋が建ちだして商店街が形成されるようになった、とありました。その後はかなりの賑わいであったといいますが、今は昔ですね。
▼この近辺で石列遺構が出土したという事で、ここを本町滑原(ナメラ)遺跡とされています。
2002年に下水道工事をしていて見つかったとありますが、そんな最近でもこんな大きなものが見つかるのですね。羽柴秀吉池田輝政の時代のものとされ、1600年前後のものかと思われます。
向こうが続いていたエリアですが、ここで途切れて少し全くない部分がありますが、またこの手前の部分は骨組と軒先の庇だけが残っていました。
かつては屋根があったものが取り払われたのでしょうか。商店がまだ営業しているのになんだかかわいそうですね。もう少し先ならまだ屋根が残っているというのに。
▼この辺りになると完全に屋根の面影も見られませんでしたが、まだ商店街ではありました。床地に商店街が続いている事が確認できます。
しかし、アーケード内の商店の方が逆にノスタルジックで、廃墟感すら感じる部分もあるというのがなんとも皮肉な感じがします。逆に屋根のないこういうところの方が、そんな寂しげな感じがしないというか。
▼旧 玉置家住宅として残っている住居です。国登録有形文化財です。
ナメラ商店街を抜けて逸れて、傍の幹線道へ出てきたところにありました。
1826(文政9)年に上州館林藩の財政立て直しのために切手会所(今でいう銀行)として建てられたのが始まりといいます。
なんで館林?と思いました。館林といえば今は夏の暑さが有名な群馬県の都市です。何の関係があるのか??ですが、1747~1842年の間、この三木は館林藩の飛び地であったというのです。
市街の離れた部分を「飛び地」とはいいますが、いくらなんでも飛びすぎだろ?と思いますが、江戸時代には知行高合わせや縁故によるもの等々で、様々な遠隔飛び地が存在していたようです。
館林が財政難の中、三木では金物産業が隆盛し、これに目をつけた館林藩がこのような施設をつくった背景があるとの事でした。ここに記されている玉置家の住宅となったのは、1875(明治8)年のことだそうです。
入館無料で、開館は10時から16時、火曜日が定休となっています。
有形文化財として登録されていますが入る事も出来るので、旧家に興味ありの方には是非に寄ってほしいところです。
三木合戦の舞台である三木城跡からナメラ商店街、旧玉置住宅まで、三木上の丸駅から歩いて行ったこの旅、三木の中心街も良いのですが、ちょっと外れた所で、こんな街並みを味わうのも良いかと思いました。金物にほとんど触れられていませんが…
三木はJRが通っておらず、アクセスが不便な部分もあるかもしれませんが、訪ねてみて旅市外のある街だと思います。
という事で三木市第一弾終了です。
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