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2022年12月の3件の記事

2022年12月17日 (土)

生活と思い出と世の中と(1994年②)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。32回目は1994(平成6)年の第2回です。

 

●ドラマ

アリよさらば …矢沢永吉さんの実質的連続ドラマ初出演作の高校が舞台の学園ドラマ。生徒役で後に有名になったメンバーを多数輩出。

夏子の酒 …和久井映見さん主演の酒蔵もの。

家なき子 …安達祐実さん主演「同情するなら金をくれ」のセリフが有名な、またバイオレンスシーンも強烈な作品。翌年続編放映。

お金がない! …織田裕二さん主演。貧乏な男が成り上がっていくサクセスストーリー。

 

●音楽

「いとしさと切なさと心強さと」(篠原涼子) …あちこちで流れていた曲で、篠原涼子さんの出世作

「アリよさらば」(矢沢永吉) …自身が主演した同名ドラマの主題歌、作詞は秋元康さん。

「Virgin Beat」(氷室京介) …軽快なビートに乗せて軽快に歌い綴るヒムロックの象徴的作品

「ROCK ME」(ハウンドドッグ) …ハウンドドッグのシングルでは異次元のボルテージの高さをほこるROCK曲

●訃報

高品格さん …元ボクサーで鈍牛のような雰囲気を持った悪役から、「大都会」シリーズでは全話にベテラン刑事役で出演

安井かずみさん …沢田研二「危険なふたり」など数多くのアイドル系を中心に作詞した作詞家。

菅貫太郎さん …ギョロ目に信念の強い狂信的な悪役を得意とした俳優、交通事故死。

香川登志緒さん …関西放送作家界の重鎮。「てなもんや三度笠」などの作詞も。

大山倍達さん …空手家の重鎮的存在。「空手バカ一代」ではその空手の神髄を垣間見られる

小川英さん …「太陽にほえろ!」のメイン脚本家として番組のクオリティーを保ち、番組長寿化に貢献

鳳啓助さん …京唄子さんとの漫才コンビで人気を博す。「ポテチン」などのギャグも有名。

東野英治郎さん …悪役として活躍してきたがTVドラマ「水戸黄門」の初代・黄門様を長年演じてきた俳優

海原お浜さん …海原お浜・小浜として漫才コンビで活躍。眼疾の為途中で引退。

中川勝彦さん …ビジュアル系の歌手、タレントとして活躍も32歳で白血病の為早世。中川翔子さんのお父さん。

京塚昌子さん …にっぽんのお母さん、の主演級女優として昭和のホームドラマに主演。「肝っ玉かあさん」は特に有名。

中条静夫さん …勤勉な忠臣から豪快なオヤジまでさまざまに演じ分けた名優。「あぶない刑事」の課長役でも有名。

汐路章さん …ゴロツキ系の悪役を得意とした俳優。

乙羽信子さん …新藤兼人監督を夫に持つ女優。「おしん」では主人公の晩年期を好演。

 

●プロ野球

「10.8決戦」と「イチロー旋風」がハイライトでした。

巨人vs中日のシーズン最終戦が、両チーム同一の69勝60敗で、「この試合に勝てば優勝」というこれ以上ない劇的な優勝争いとなりました。野球のペナントレースの場合はほとんどが、途中の試合で優勝が決まってしまうので、後は消化試合…となりますが、この時は最終戦まで全く気の抜けない展開となりました。

巨人はこの年、落合博満選手が中日から巨人へ移籍してきていて大きな戦力となっていました。10.8決戦では巨人は槙原-斎藤-桑田という当時の「先発三本柱」の文字通り「シビレる」リレーによるまさに総力戦で挑み、結果6-3で中日を下し、最終の優勝決定戦でリーグ優勝を決め、西武との日本シリーズも制しました。

この時敗れた西武の森監督は監督を辞任し、後任には石毛選手が現役を引退して就任、という話も上がりましたが、結局石毛選手は固辞してダイエーへ移籍する事となりました。(後任監督には東尾修氏が就任)

パ・リーグでは「イチロー旋風」で、それまで一軍の実績はわずかなものでしたが、この年すい星の如く現れた「イチロー」の大活躍をずっと見ていて、またメディアが連日報道しました。

夢の4割到達か?200安打達成なるか?といわれ、毎日の成績が報道され…結果的に打率は.385で210安打となりましたが、年俸は10倍になったといわれました。

中日のエースとして活躍した「スピードガンの申し子」小松辰雄投手が引退し、200勝投手の広島・北別府学投手もこの年引退しました。また巨人・篠塚和典選手も引退、晩年は腰痛に悩まされ90年代は出場が限定的でしたが、天才的な広角打法で3割の常連でした。

 

●大相撲

優勝は貴乃花が4回、曙と武蔵丸が1回ずつの「貴乃花時代」でした。もっとも「貴乃花」に改名したのは11月の九州場所からで、それまではずっと「貴花田」でした。

貴乃花に改名した11月場所は大関でしたが、「2場所連続の全勝優勝」を飾り、大関までで7度も優勝し、満を持して翌1995(平成7)年初場所より横綱へ昇進しました。

引退力士としては、三役経験者は一人もおらず、前頭筆頭で恵那櫻、花ノ国が引退しました。花ノ国はね千代の富士が通算1,00勝を達成した時の対戦相手でした。

 

総じて1994年、松本サリン事件のような怖い事件も発生しましたが、Windows95以前の、PCの一般的でなかった、まだ昭和の残る時代だったと思います。

2022年12月 4日 (日)

生活と思い出と世の中と(1994年①)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。31回目は1994(平成6)年の第1回です。

自民党外の政権が続いた中で細川内閣の退陣、羽田内閣、村山内閣の発足、松本サリン事件の発生、色々と波乱含みだった印象のある年で、個人的には24歳になる年男の年でした。

 

●ニュース

前年に自民党政権体制、いわゆる55年体制が崩壊して、新しく誕生した細川護熙内閣でしたが、翌年にあたるこの年にわずか9ヶ月弱で退陣、続いた誕生した羽田孜内閣は更に早く2ヶ月わずか64日で退陣という、目まぐるしい動きがあり、そして村山富市内閣が誕生しました。眉毛が長い「トンちゃん」は人形まで出て、その飄々としたキャラクターと相まって話題になりました。

松本サリン事件はテロ事件として話題になりました。これが翌年、あの地下鉄サリン事件につながるとはこの時まだ思ってもみませんでした。

関西国際空港はこの年開港しました。それまで伊丹が大阪空港としての役割を担っていましたが、この90年代だけで関空ができ、またその後には神戸空港ができ、と急速に増えました。伊丹が「大阪空港」と呼ばれていたので、昔幼少時にこの空港に行くとなった時に、大阪府に足を踏み入れる、ものだと思っていたら実は兵庫県(県内)でがっくりした事があります。

野球の項で触れますが、10.8決戦がこの年で、当日先述の皆で集まっていた時にこの戦いが行われていました。同じく野球で巨人の槙原博已投手が平成唯一の「完全試合」を達成しました。オリックス・イチロー選手がシーズン200安打を越えたのも大変話題となり、かなり破格な出来事が多かった年と思います。

 

●仕事

社会人2年目を迎え後輩が入ってきたという状況で、ちょうど勤務1年にして最初の店舗から異動命令により離れる事となりました。

最初の店舗は、最初は慣れな過ぎて酷かったですが、年明け以降はすっかり慣れて、頑張れると思いながら日々を過ごしてきた中での異動命令、上司である店長に「今君に抜けられたら痛い」と言ってもらえたのは嬉しかった思い出です。

4月~2つ目の勤務先へ異動してきました。勤務先がすごく遠くなり通勤時間が激増し、それまで遅番だと9:15くらいに出てたのを6:55くらいに出たり、帰りも19:30くらいに帰れたのが、21:00までに帰れる事がほぼなくなり、バス→電車→バス→徒歩みたいな感じでした。なのでだいぶプライベートタイムは減りました。また社内でいちばん売れる店舗だったのでレジに立ったり、休憩明け店舗に戻る時が、戦場へ向かう気分でした。多分これまで30年近い社会人キャリアでも、もっともハイテンションで仕事に取り組んでいた時期だと思います。

多分、そんなに長くはここにいないだろう、と思いつつ仕事していましたが、案の定3ヶ月半で異動となり、次は他の小店舗で「店長」として赴任となりました。それまで店長を上司に「アシスタント」の立場でしたが、社内イチ忙しい店舗で修業期間だったんだなというところでした。

7月~は店長として赴任しました。という感じで、1月、4月、7月とどれも違う勤務先で、最初の会社の4年間では最も慌ただしい年でした。

店長になって赴任し、そこは小店舗で忙しさ具合は前勤務地と異次元に少なかったのですが、何せ人手不足でした。パートさんがやめていき…という状況で、募集しても来なかったり、来ても「??」で続かなかったり…。それもあって後にも先にもない14日連続勤務をこの時やりました。シフト上「休日」とした日も何回か出てきたりして…。

3ヶ月くらい経ってようやく人的面が安定し、久々にプライベートタイムを感じられ、学生時代過ごした地へ半年以上ぶりに行きました。それまでほぼプライベート何してたか覚えてないくらいでしたが、ここから少しペースが掴めてきたかな、という感じで。この会社は2年目で店長とか当たり前でしたが、昔の同級生から見ると驚かれてました(笑) 普段2、3人で回してた店舗ですが。

 

●プライベート

覚えてない期間もあるぐらい仕事に全力投球していたといっても過言ではない時期でした。それもまだ若くて情熱があったので、仕事の忙しさとそれに向き合う能動的なパワーと、これまでのキャリアで最もあった年だと今振り返っても思います。

その分だけ、プライベートも最もアグレッシブだった気がします。毎日のようにCD店寄ったりは以前からしていましたが、恥ずかしながら朝帰りも初めてしたり、夜遅く2時や3時まで遊んでたり、若さゆえかあまりに酷かったので、実家に居づらくなり引っ越して自立する事を決め、初めて自分で不動産屋に行って、賃貸契約をしてきました。社会人2年目で敷金40万払うのは痛かったですが、単身移住を果たしました。当時は敷金礼金が家賃の10ヶ月分とか普通でしたから…。

とにかく手続きが色々面倒でした。それまでの引っ越しは実家から学生アパートの引っ越しで、この時は大家になる方に勧誘されてそのまま入ったので、ほぼ苦労なしで、大学卒業時の引っ越しも実家に戻るだけだったので楽なものでしたが、社会人になって初めて自分で決めて引っ越し、全部自分でやり切るのは大変でしたが、楽しくもありました。何せ初めての1Rでのひとり暮らし、学生時代はキッチンと風呂、電話が共同だったので、やっとホントの意味での一人暮らしができるようになった、気分でした。

引っ越ししました、というハガキを方々へ送りつけたり、当時あった「プリントごっこ」を買って年賀状を作ったり、以後数年はこれを使って年賀状を作るのが年末の楽しみのひとつでもありました。

学生時代過ごした街へ3月までは毎月のように行ってましたが、転勤後ほぼ行けずに半年後にようやく、しかもめったに休めない土日に休めて、行く事ができました。学生時代メンツが20数名集結して旅館で大宴会、とても楽しいひと時でした。

翌月、同様に訪ねた際には小規模でしたが何人かと会い、出身大学のイベントを色々見て回って、平穏なひと時を過ごしました。学生時代の日常に帰ったようにも思えて、これまた良いひと時でした。

また、この年辛かったのが「腰痛」でした。春から夏ごろまで、ぎっくり腰のような突然来たのではなく、いつの間にか常時痛くなっていました。立ち仕事に重い荷物運び、若さに任せて腰のケアも考えず動き回っていて、明らかにそれがダメだったのですが23歳にして腰痛に悩まされる辛い日々が続きました。じっと立っててもいたい、歩いてても座り場所を見つけたがる、座り続けても、寝続けても痛い…どうしようもない日々でした。しかし、いつの間にか痛みが引き2、3ヶ月で解消されました。特に何をしたわけでなく、辛さに悩んでるうちにいつの間にかなくなり、その後は一時的に痛いと思う事はあっても、日々常時痛くなることは30年近く経って一度もありません。特に腰のケアもしていません。ただモノを持つ時は絶対に腰を落としてから持つようにしているぐらいです。

そしてこの年は「暑い夏」でした。腰を痛めて調子悪いさなかで余計厳しく感じたかもしれませんが、夏の暑さがこの時代にしては突出していたように感じました。ここ近年はそのぐらいの暑さは普通になってきた気がしますが…

 

●旅行

1月に初の愛媛県に行きました。初四国は1989(平成元)年に大学受験で香川・高松へ行きましたが、四国で2番目に訪ねたのは愛媛・松山でした。ホントにちょっと寄っただけで帰ったので、大して行ってませんが、その県に足を踏み入れるというだけで、この時は良かったのでした。

これ以外は殆ど旅行はできていなくて、春から秋はどっぷり地元に浸かっていた事もあって、そこへ気持ちが向かなかった部分もあります。

 

2022年12月 3日 (土)

俺たちのヒーロー列伝・その27 渡辺徹(1961~2022)

「俺たちのヒーロー列伝」久々に、急遽upします。

今回のヒーローは…

渡辺徹(わたなべ・とおる)さんです。

 

昨日、訃報が届き大変驚きました。

まだ61歳の若さで…

御冥福をお祈りしつつ、渡辺徹さんの演じた役柄でヒーロー性のあるものないものを問わず、今回は個人的に印象に残ったものを書き綴っていきたいと思います。

 

「太陽にほえろ!」

まずはやはり、代表作といって過言ではない、デビュー作であるこのドラマが一番に挙がってくるでしょう。

番組スタート10年目となる1981(昭和56)年9月に新人刑事「ラガー」として登場しました。当時20歳。

この当時、それまでのレギュラー陣で最年少の役柄を演じていたのがスニーカー刑事役の山下真司さんで年末に30歳になるという状況、役者レベルでの最年少は満29歳の沖雅也さん(番組上の役柄では30代)でしたが、徹さんは山下さんの降板後の後任として約10歳年下の最年少刑事として登場します。(刑事の役柄設定は22歳でしたが…) 

という事で一気に10歳も下回る、イキのいい新人として一躍世の注目を浴びる事となりました。

当時、この番組の新人刑事役というと、ドラマのストーリー中で主役を張る事も多いポジションであり、ましてやこの当時は主役である石原裕次郎さんが大動脈りゅう乖離という生死をさまよう難病と闘い欠場中の状況だったので、その存在感を問われるのは尚の事、という状況でした。

やがて登場後数ヶ月で裕次郎さんが奇跡のカムバックを果たし、「ボス」のもとでラガー刑事は活躍を続けますが、その後番組はベテラン刑事が次々と殉職や転勤などで去り、後から刑事が登場してきますが、しばらくはずっと「一番下っ端」の役どころでした。

登場後わずか2年近くで、ようやく後輩となるブルース刑事(故・又野誠治さん)が登場し、「先輩刑事」になりました。

初期のラガーは精悍で痩せていて、動きもシャープで無鉄砲、初代新人のマカロニ刑事(故・萩原健一さん)を思わせる部分も見せていました。

時を経るにつれて体重が増加し、見た目には初期と別人になるぐらいのレベルで、1984(昭和59)年頃にはかなりの重量感が顔に身体に現れていました。この頃は自身の主演ドラマとの掛け持ちで活躍機会が激減し、いつ降板してもおかしくない感じでしたが、1985(昭和60)年の初めには、それまでブルゾンなどのカジュアルスタイルで出ていたのが、スーツスタイルへ変わっていきました。歴代で一番下っ端の新人が、カジュアルスタイルからスーツスタイルへ変更となったのは、彼が初めてでした。それだけ長期に在籍して、成長していったという事だと思います。当初はアクションに比重が置かれた主演回が多かったですが、段々と推理など「静」の部分も少なからずのストーリーでも主演するようになっていきました。

そしてこの年の初めには、ラガー刑事が入院する「ラガー倒れる」という回が制作され、犯人との格闘で膝をやられ「骨肉腫」という事で入院、この時「殉職への伏線か?」と当時中学生なりに思いました。

約2ヶ月後に戦線に復帰するまでは、入院中の設定で同僚や後輩刑事が見舞いに来るというスポット的な出演を重ね、「退院」という形で復帰しました。しかし古傷は時々うずき出しながら、復帰後4ヶ月で「ラガーよ 俺たちはお前がなぜ死んだか知っている」という番組史上最長のサブタイトル回で1985年8月2日、殉職しました。

バスジャックされたバスに重要証人が乗っているという事で、複数の殺し屋がビルの屋上で狙撃体制に入ったところ、ラガーが別のビル屋上へ駆けつけ、殺し屋の一人を仕留めながらも、もう一人の殺し屋はバスの狙撃体制に入り、銃身だけしかみせなくなり、この間では確実にバスが狙撃されてしまう…!そんな中、「やめろーーー」と大声を上げて、ビル影から突然躍り出て、おとり同然でライフル犯の前に走ったところを狙撃され弾丸は右胸を貫通、出血多量の中を相討ちの形で殺し屋を仕留め、自らの命と引換えにバスの狙撃を食い止めました。大量出血しながらも這ってビルからエレベータで降り、出たところで挟まって死んでいるという姿で、劇中では同僚たちの涙溢れるシーンでしたが、後で振り返って見られると、いつも本人含めギャグのように話していたのを思い出します。

デビュー作にして当たり役にもなったラガー刑事役は約4年務めていました。

映画「夜明けのランナー」

1983(昭和58)年公開の映画初主演作にして、「太陽にほえろ!」出演時に掛け持ちで出演でした。

実業団サッカー選手だった男がケガがもとで選手生命を絶たれ、車で運転中に恋人が妊娠したと打ち明けられ、気が動転し事故を起こして恋人は流産、やがて別れ…となり、帰郷するにあたりその元恋人の待つ所へ向かうも、街でチンピラにカツアゲされて無一文になり、お金がないので元恋人のもとへ走って会いに行く為、そこからひたすら走りに走るという映画でしたが、彼がこういった青春スター的立ち位置で映画出演をしたのはこれが最初で最後でしたね。

 

「風の中のあいつ」

1984年に放送された日本テレビ系土曜21時の連続ドラマで、これも「太陽にほえろ!」でレギュラー出演中に掛け持ちで、しかも連続ドラマ初主演作として出演した作品です。

それまで刑事役でデビューした役者は、番組を降板してから主演ドラマをもらうのが通例のようになり、萩原健一「傷だらけの天使」、松田優作「俺たちの勲章」、勝野洋「俺たちの朝」、宮内淳「あさひが丘の大統領」など、歴代の新人刑事経験者は、この道をたどってきましたが、これ以降はそのような事がなく、降板した山下真司氏は特にそういったドラマがなく、3年経ってから全く別系列のオーディションで「スクール・ウォーズ」主演の座を射止めました。

が、徹さんの場合は出演中という事でかなりの異例でした。それに比例してラガー刑事の主演回は激減し、1984年は数えるほどしかありませんでした。それだけこのドラマの出演に比重がかかっていたのでしょう。

約10年前の1973(昭和48)年に同じタイトルのドラマが「時代劇」で存在していましたが、これは「太陽ー」の大先輩にあたる萩原健一氏が主演しており、悪役キャラとされる「黒駒の勝蔵」の若き日を描いた青春時代劇的な作品でしたが、これとはまったく無関係のものでした。

相手役が、後に妻となった榊原郁恵さんで、徹さん本人が郁恵ちゃんの大ファンで出演が決まった時は相当喜んだ、というのは有名な話です。

このドラマは見たり見なかったりしてましたが、病院の先生役で、ライバル的な役どころに「太陽ー」の後任となる金田賢一さんが出演されていたのが後に「おお」となりました。

とにかくこの作品が縁で、郁恵さんと結婚する事になったといいます。

続編として翌1985年に「気になるあいつ」がスタートしました。この作品は掛け持ちではなくて、「太陽ー」でラガー刑事が殉職した翌日にスタートし、そのドラマの冒頭シーンは徹さん演じる主人公が(前日に放送された)「太陽ー」のラガー殉職シーンを見て泣く、というものでした(笑)

 

春風一番

1986(昭和61)年放送のやはり日本テレビ21時枠の作品。この枠の徹さん主演3部作のラストというところです。

今回の相手は郁恵さんではありませんでしたが、この3部作のすべてに明石家さんまさんが出演しており、この年の夏に「男女7人夏物語」で主役の座に躍り出て、共演の大竹しのぶさんと結婚する事にもなります。

太った身体を利用して?元相撲取りという設定にされていました。

 

映画「そろばんずく」

とんねるずの主演映画ですが、この頃からバラエティの要素が濃くなり、この映画では局所にモザイクのかかった全裸で踊ってるシーンがあります。それもかなりの体格で踊ってるので、コメディーにしか見えませんでした、この映画で記憶あるのはこのシーンだけですが…

 

ハングマンGOGO

1987(昭和62)年に放送された「ザ・ハングマン」シリーズの最終作です。

この時、「ハングマンの顔」的存在の名高達男さんが主演した「ザ・ハングマン6」が放送されていましたが、自身のスキャンダルにより降板する事となり、他のメンバーは残留のまま急遽徹さんが主演に据えられる形でタイトルを変更し継続された格好です。

ハングマンといえば、ハードボイルド路線のイメージもありましたが、時を経るごとにコメディーチックになっていき、このハングマンGOGOはハチャメチャでギャグ全開といっても過言ではないぐらい、ハードボイルドの要素は微塵もありませんでした(笑)

この時、徹さんの体重は最盛期(130kg)並みと思われ、ちょうど郁恵さんと婚約しており結婚間近の状況で、劇中でも「結婚資金を貯める為」にハングマンになった、とされています。

それまでハングマンの主役というと、林隆三さん(ブラック)、黒沢年雄さん(マイト)、名高達男さん(E・T、サファリ、フラッシュ)、山本陽子さん(パピヨン)といった具合ですが、徹さんの「コードネーム」は「ダブル」で、ダブルサイズだからじゃないか?と劇中で言われていました。東大出でIQ200と言われていますが、胡散臭さに満ち溢れ、そんな設定はドラマと何の関係もなく、自身が隠れ蓑にしていたラーメン屋の名前は「豚珍軒」だったり、ただただ徹さんの明るさが突き抜けていた、異色のハングマンでした。

 

この番組の終了した翌月に、渡辺徹、榊原郁恵の披露宴として全国中継されましたが、リアルでこれ見てました!

別れてもダメなひと

そして、この結婚の翌年1988(昭和63)年に、夫婦そろって主演したのがこのドラマでした。

その話題はかなり先行していましたが、すみませんストーリーはよく覚えてません…

 

こまらせないで

1989(平成元)年の作品で、ここでは主演ではなく準主演的立ち位置で、主演・荻野目洋子さんの兄役ですが、行方不明から突然現れ、探偵を稼業としながらもいつも失敗ばかりで家族に金をせびるようなダメ男を演じていましたが、なぜか憎めないキャラクターでした。

毎回クライマックスで荻野目ちゃんがスーパーレディーに変身して、その兄の窮地をこっそり救う(バレないように)ような一話完結のテイのものだったと記憶していますが、もう一回見たいですこの作品だけは。

今回の徹さんの訃報で、的場浩司さんがコメントをされていましたが、「徹さんがいなかったら、今の俺はない」というものでした。

それは、連ドラ初レギュラーだった彼にとって「当時自分に話しかけてくれる人間がほとんどいなくて敬遠されていたが、唯一話しかけてくれたのが徹さんだった」と、このドラマでの出会いについて触れたものでした。当時の彼は、かなりの強面だったので、声を掛けるのも勇気が要るであろうことは想像に難くなかったのですが、でも「敬遠された」と感じ取っていたのですね。底抜けに明るい徹さんが、「NGを連発して、周りから嫌味を言われても、「気にするな」と慰められた」とあり、今日電車内で偶々この記事読んでて涙が止まらず恥ずかしかったです…。

 

その後の役柄というと、連続ドラマから遠ざかった事もあり、正直あまり見ていなかったですが、1992(平成4)年に「俺たちルーキーコップ」(仲村トオルさん主演)のオープニングのトメにキャスティングされていた記憶はあります。

CMでは、初期は小泉今日子さんと共演した「グリコ・アーモンドチョコ」での「カリっと青春」のフレーズのもと、アイドル路線で爽やかにやっていた時期もありましたが、1990(平成2)年頃の紙オムツのCMだったか「徹なのに、通れない」と着ぐるみを着てのものが個人的にとても印象的でした。

 

渡辺徹さんの御冥福をお祈りいたします。

 

 

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