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2023年7月23日 (日)

生活と思い出と世の中と(1988年②)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。節目の50回目は1988(昭和63)年の第2回です。

1回目とは逆に、当時の自分の生活や出来事を世の中へ照らし合わせた形で綴っていきます。

 

●高校生活

この年は、3月まで高校2年、4月からは高校3年の年でした。

ほぼ前の席が多くて、1月は1番前の席で、同性の男が近くに居なくて、小テストを交換して採点するよう先生から指示があったときには困ったものでした。

服を買うことに前年から目覚めて、この頃は色々な色の組み合わせを楽しんでいましたが、派手な色と派手な色をシャツとセーターで合わせて、かなり「色キ●ガイ」の気がありました。金のシャツに濃いブルーのフカフカなセーター、その上に学生服みたいな、脱ぐと超派手になるそんなのを周りから「変!」と言われながら楽しんでいました。

服でいうと、高2が終わった後の打ち上げで、白のひだひだのシャツに白のひだひだジャケット、白ズボンで現れて「チューブ」と言われてしまいました。迷いに迷って、どんな格好がいいかな?とずっと考えていたぐらい、服装のことばっかり考えてました(笑) この当時TUBE「BEACH TIME」というシングル曲を出していました。

髪型はいっつも同じものでキメてて、右左6:4で分けて、右の前髪は生え際だけ下ろす、これがキマればご機嫌でした。根っからのナルシストだったんだなと。こんなに過剰だったのはこの時がピークでしたが。そんな折、当時放送していた「あきれた刑事」の時任三郎さんの髪型に憧れて、散髪に行ったところ、思った以上に短くなり、坊主の延長みたいなみすぼらしい髪型になってしまい、しばらく落ちてました。(笑)

この年の末にも、再トライと思って短めに切ってもらいましたが、またも失敗で同じ結果に。この当時放送されていた「とんぼ」の長渕剛さんみたくなって、そんなつもりはなかったのに…となりました。櫛やブラシでどうにも動かない短さで…。
この前年か忘れましたが、化粧品店に時々寄っていました。生涯で最初で最後か「ポマード」を買いました。陣内孝則さんがCMでやっていた「ギア」という商品です。すごい、こんなに髪まとまるのか、ほんとに「ベッチョリ」という感じで、髪に色々つけるのを楽しんでいた頃でもありました。

▼「あきれた刑事」の時任三郎さん(右)

Etv19871030_0

3月に入試期間で3、4日学校が休みになりました。高1・高2の特権で、これは良かったですね。この時に「太陽にほえろ!」のゴリさん殉職編の再放送があって、カセットテープで録音(!)してました。家にビデオデッキはありましたが、母親のものだったので…。

親戚姉妹(伯母達)が一堂に家に来ましたが、3年くらい会ってなかったり、その間多感な時期を過ごした後もあり、会うのがすごく恥ずかしかったのを覚えています。中2くらいまでは普通に会って話していましたが、これ以降は今に至るまで距離があるまんまですね…

1月~3月のクールで放送された「華の嵐」という昼帯ドラマが空前の大ヒットとなり、我々高校生男子の間でも「ごきげんよう」と挨拶するほどでした。この時の渡辺裕之さんがそれはもうカッコよくて、高木美保さんと共に昼ドラマから人気ブレイクしていました。小堺一機さんの「ごきげんよう」のタイトルも、このドラマでのセリフが語源でした。高校へ行ってたので、昼までの日だけしか見れませんでしたが…

高3になると「受験」がついて回りました。2年の時から大学を視野に入れた担任との面談はありましたが、いよいよ本格的に受験準備となり、まぁでもゲームセンターに行ったり、運動会の後は人の家に遊びに行ってお泊りしたり、なんだかんだ遊んでました。きっと高校受験前のが勉強してただろうな、という感じでした。

中学→高校になって、行動範囲が広がり、交友関係も広がり、その事が遊びに向いていったのかな、と感じました。もちろん勉強を頑張るライバルもいて、一緒に勉強して励みにもなりましたが…。

それこそ夏休みは、部活は高2夏で辞めていましたが、暑い中自転車で約30分かけて高校へ出てきて、ライバルと自主勉強して、ここで数学のマークシートに絶対的な自信(文系なのに)をつけました。最初に数字を置いてみる「逆解き」なんてやってみたり(笑)

その勉強のライバルの話で、彼は自他ともに認めるヤンキーで、自分とは正反対といっても過言でなく、こんな奴が友達になるなんて…と知り合った当初は夢にも思いませんでしたが、不思議なことに何度か席が近くになって喋っているうちに気が付けば一緒に帰ったり喋ったりしてました。
彼が学校で他の生徒と暴れて停学になったことがあり、それから何日かして電話がかかってきて、その時風呂に入ってて出れず、家族から伝言を聞いた時に少々ビビりました。彼の停学と自分と何の関係もありませんが、「なんか怒らせるような事したかな…」と不安になり、おそるおそる電話してみると… 「俺、明日から謹慎解けるんじゃ」と。口調が少々怖くて余計不安になりましたが、「明日、一緒に学校行かへんか?」というのです。住んでる所が全然違うので学校へ一緒に行った事などありませんでしたが、途中まで帰ってた事はあって、その別れの地まで行きました。彼なりに復学が恥ずかしかったんでしょうが、その相手に自分を選んでくれたのは嬉しかったですね。いい加減なワルでしたが(笑)

しかしこの頃って携帯やメールなんかないので、会わない時は電話での話がすべてでした。今の時代なら、もう少し女の子と話をしたんだろうか?とか思うことがありますね(笑)誰とだったらやりとりしてたんだろうか?とか。

高校に海外留学生としてやってきた人が急死したり大変なこともありました。こんな若さでもそんなあっけない事があるものか、と考えさせられました。

10月に「CDプレーヤー」なるものを初めて買いました。この当時CD単独のプレーヤーというものが売っていました。翌年CDラジカセを買いますが、スピーカーを買っていなかったので、ヘッドホンを買ってそのヘッドホンで音量調整をしていました(笑) この時初めてCDを買いました。それまで店頭で陳列していたものを手に取るぐらいでしたが、初めてCDの中身を見て不思議な感覚でした。

またビデオレンタル店が近くにできたので、レンタルして親からデッキを借りて時々見ていました。そういう、自分にとって新しいメディアに触れた時期でもありました。

11月くらいになると模試に行ったりして、自己採点でいくらとか、だんだん本番に向かって実力を知る事となっていきました。それでどこの大学を受ける、というのがだんだん現実的になっていった訳ですね。この時は「共通一次」を受けて、二次試験は国公立A日程・B日程という形で行われていました。

多分、生まれて初めてコンビニに行ったのはこの年だと思います。一応、通学範囲には1ヶ所ありましたがなかなか寄る事がなく、書店や食料品店?に寄る事はありましたが、コンビニに寄る必要性がありませんでしたし、昭和時代の田舎においては絶対的にコンビニの数自体が少なかったのがありました。

当時の姫路にはダイエーがあって(2002年閉店)、よく寄っていました。服を買ったりゲーセン行ったり…。また姫路駅前の大手前通りは自転車置場が地下へ移行する頃で、それまでは通りの自転車置き場に止めたり、商店街である「みゆき通り」の各店の前にズラーっと自転車が並んでいる中を止めたり、自転車駐輪に関しては自由でした、というのが地下へ移されるにあたり、面倒になっていきました。

同じ、みゆき通りでいえば、今は別の場所にありますが「献血」を時々していました。友達と献血に行って、そこでもらったマクドナルドの当時の「サンキューセット」の券を手に、マクドに行くという(笑)社会貢献と自分たちの腹を満たす一石二鳥などといって(笑)

 

高校生、馬鹿な事も沢山しましたが、みずみずしいその感性が今から振り返ると羨ましく、二度と過去には戻れないので、若い命は大事にしなきゃと一層思いました。

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