生活と思い出と世の中と(1986年①)
遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。56回目は1986(昭和61)年の第1回です。
高校1年の年でしたが、3月までは中学生でした。
そんな時代の出来事と当時の文化などについて触れていきたいと思います。
●中三時代
1月から3月まで中学生、中学三年生でした。
高校受験の追い込みで、とにかく遅くまで勉強してました。毎晩1時過ぎまでやってたでしょうか。
親から支給された肉まんとコーヒーを「夜食」として飲食する時間が「至福」でした。
部屋から窓の外を時々見て気分転換しながら…この高校受験の時が多分、他よりもずっと勉強したように思います。
大学受験はもっと緩かった気がするし、中学受験もしましたが、ここまで自分からしなかったなという感じで。
どうしてもこの高校受かりたい、という気持ちが強かったですね。もっとも倍率の低い高校受験で、最も頑張っていたと思います。
なので、学校から帰ってドラマの再放送なんか見てたら親に注意されていました。「そんなもんいつでも見れる」と(いや、見れんけど…うちビデオなかったし、って感じでしたが)
うちの中学は、定期テストがあると全教科の点数を合計し、上から30人ずつA、B…とランク判定する方式で、この中3の時、BかCがほとんどでしたが、最後の定期テストの時に親が「A取ったら小遣いあげる」と、その言葉に釣られて最後の最後に「A」が取れました。中学3年間で唯一の「A」でした。
でも、その再放送のドラマを見ては、次の日帰りに友達とその話で盛り上がってたので、見て良かったなと勝手に思っていました。(娯楽の選択肢の少ない時代だったので…)
1月は横綱・隆の里が引退しました。糖尿病を克服し30歳を越えて横綱になった「おしん横綱」と言われた力士、引退後鳴門親方となり指導していましたが、59歳で早世することとなります。
この時期、生涯で唯一の「しもやけ」に罹りました。後にも先にもありませんが、受験勉強しないとの時に指が痒すぎて鉛筆も持てなかったのを覚えています。最近しもやけにかかる人、聞いた事がないですね。
2月にいわゆる「すべり止め」的に某私立の高校を受験しました。筆記テストもありましたが、その高校は当時男子校(現在は共学)で、野球の名門校ですが、「50m走」が入試の中にありました。これはたぶん走れるかのチェック程度のものだったと思いますが…。
程なく、合格通知が届き、とりあえずこれで高校へ進学はできるようになりました。学校を受験して初の合格通知でした。しかしあくまで公立へ行かねば…です。
本命の(公立)志望校へ願書出したのかな?覚えてないけどそうなんでしょうね…、そして3月13日?中学校の卒業式がありました。
その足で、友達と家に帰って、うちの部屋でダベってたのか、これもどう過ごしたか忘れました。。
卒業式の翌々日が公立高校の受験日、受験番号が155と足したら11になる「インケツ」番号でイヤだなと思っていました(笑)
そして現地(高校)へ受けに行きました。「これが高校か!」と教室を見て思いましたね(笑)
感触は微妙でしたが、数日後ドキドキしながらまた高校まで出てきました。
中学までは、基本校区内での生活でしたが、高校は市の中心まで行くわけで、バスで20分+徒歩で15分くらいかけていきました。
自分の受験番号は…
ありました!!
合格!
希望通りの高校に行くことができる、その時はそれだけでした。
合格後、再度高校へ行って支給品をもらったりしてましたが、その中で入学前の「宿題」がドッサリあって、英語や数学など色々ドリルで勉強しました。
春休みに中三のクラスで最後の会がありました。中学って制服なので、みんなの私服なかなか見ませんでしたが、中学を出るという事で背伸びした服装の面々もいくらかありました。今は亡きボウリング場へ行って、この時代はボウリングがまだまだ遊びの主流で、逆にカラオケボックスなんてまだそんなに普及していなかった時代でした。
帰りに雨が降って、傘忘れて自転車で濡れて帰ってたら、両サイドからクラスの面々が自転車で横につけて傘をさしてくれたのが嬉しかったし、いまだにハッキリ覚えてます。あんまり人から優しくされた記憶がないもので(笑)
それと、高校に行くにあたり色々もらったりしました。
まずは通学用のスポーツサイクルを買ってもらいました。当時はスポークの部分にギアシフトのレバーがあって、今の自転車にはないフォルムでした。
それから、待望の「TVチューナー付Wラジカセ」を買ってもらいました。
今の時代には通じない言葉なので説明すると、ラジオにWカセット(カセットテープから別のカセットテープへ録音できる)がつき、更にはTVも聞ける(見れませんが「音」だけ聞ける)という、当時の自分の中では画期的でした。部屋にTVがなくて、TVを見るには1Fへ降りて親のいるところへ行かなければ…だったので「自分の部屋でTVの音が聴ける」のが画期的すぎました。といっても全局聴ける訳でなく、3局ぐらいだったと思いますが…、親から「見てはいけない」とされた、ちょっとオトナの?番組も自部屋で「聴いて」たりしました。。
あとは…当時もらったお年玉等を集めて、高校3年間定期預金に預けていました。
今だと「定期預金??」となると思います、利率が0.03%だかでほとんど利息なんてつかないと思いますが、当時は3%からはつくような利率だったので、3年間寝かせたらまあまあの額になった訳です。
●高一時代
4月8日、高校の入学式を迎えました。
母が妹の中学入学式に行ってたので、珍しく父親と行きました。
思えばこの父と2人で行動したのは、これが最後だったかもしれません。高校に入ってからあまり喋らなくなって、高校出てからは自分が実家を出たので、ほぼなかったですね…。
昼ご飯をどこかの店で食べましたが、当時「新伍のおまちどうさま」という山城新伍さん司会のバラエティーがやっていたのを覚えています。この1年後にこの番組の本番中に漫才師の春日照代師匠が倒れてそのまま帰らぬ人となりました。
そしてこの日、衝撃的なニュースが入ってきました、、
岡田有希子さんが自殺した、というのです。
まさに旬の売れっ子アイドルの自殺はあまりに衝撃で、後追い自殺する方も…という感じで社会的な影響があったのを高校生的に感じていました。
それから高校生活が始まりますが、自転車で30分くらいかけて、中学時代の同級生と3人で自転車こいで行ってました。これがなかなかハードで、スピード的についていくのも最初はつらかったですね。距離はあるし歩道は狭いし、坂道はあるし…で。そして通学途中での「パンク」がまた痛かったです。遅刻につながるし、お金もかかるしで…。高校3年間で何回パンクしたやら…という感じです。
そう、高校に入って初めて「詰め襟」の学生服を着ました。中学では、市内でも珍しい「ブレザー」だったので、中学の制服で高校受験した時は、めちゃくちゃ浮いてました。
4月11日、高校入学して間もない頃「太陽にほえろ!」で山さん(露口茂さん)が殉職しました。まさか、山さんが死ぬの…??でしたが、後任がなく、その後程なくボスの石原裕次郎さんが再度欠場となり、番組は寂しくなっていくばかりだった覚えがあります。
中学時代は坊主頭を強いられていて、高校からは髪を伸ばしてよくなったので、しばらくは伸ばしながら、散髪へ行くときに「どうオーダーしよう?」と悩んだものでした。
そして髪を伸ばすと、髪に色んなものをベタベタつけるようになりました。母が化粧品販売員だったので、そういうものには事欠かず、ムースにジェルをつけるという訳の分からないことをやってました。ジェルをつけてベタベタにしながらドライヤーで固めたり、ある時期からはキッチリ髪型が決まるようになり、とにかく時間をかけて髪はよくいじってましたね(笑) 髪が多くあった頃は(笑)
4月も終わりの頃、部活に入りました。硬式テニス部。
中学で運動部入ってませんでしたが、テニスならやれそうかな、と思って。
しかしこれが結構ハードでした。
8月になるまでラケットも満足に持てず、部員が多かったので「整理」されるためか過酷な運動を強いられました。まず毎日外周を10周、約5kmは走りました。雨の日はなくなる代わりに廊下をぐるっと走る「廊練(ローレン)」というのをやっていました。これも結構走りましたが、5kmと比べると優しいもんで、毎日のように雨が降るのを祈ってました(笑)
寝ながら足だけ上げる「足上げ」もキツかったです。30度とか45度とか…。毎日往復1時間自転車こいで、5km走って、体育が週に4時間、人生で最も運動した時期でした。食欲もビックリするほどあった割に全然太らないから不思議でした、今では考えられませんが…。
部活でいうと、山の階段を上り下りしたのもハードでした。何百段あるんだ?というぐらいの長い階段をのぼり、降りる時は膝がガクガクでかつ、急斜面で落ちる怖さと闘いながら降りてました。降りる時の方が遥かに怖かったですね。
ちなみにその山とは、これです↓
勉強だと「チャート式」という学校支給の参考書で数学は勉強して、問題を解きまくって覚えていった記憶があります。数学はできたけど、理科ができなさ過ぎて結局文系へ進んだんですが…。しかし「チャート式」がいまだに存在する事にビックリしました。
英語はリーダーとグラマーとに分かれ、グラマーって最初、文法の事と知らず「なんでおじさん(うちの担任)が教えてるんだろう?」と思っていました。高校の英語って、とにかく頻繁に辞書引いたのを覚えてます。
理科は嫌いだった物理・化学がもっと嫌いになり、生物しかムリかなと思い、これが翌年の教科選択にそのままつながりました。
社会は「現代社会」が面白かったです、「高校」で勉強してるなという事をすごく感じました。
美術と音楽に分かれてて、どっちも苦手でしたが、美術を選択、ただの暇つぶし時間でしたが、生まれて初めて「油絵」というものを描き、キャンバスというものを使いました。
高校での成績はハッキリ覚えてませんが、真ん中よりちょっと下ぐらいでしょうか。高校が偏差値ごとにほぼ決まってたので、中学のようにはいきませんでした。。
夏休み突入期ぐらいに高校で「キャンプ合宿」へ行きました。ロッジ?に泊まって、一部屋10何人すし詰めで寝て…
夏休みは、部活でテニスしてました。学期中と違って時間がかけられて練習もだいぶできました。その頃になると特訓もされなくなって、ラケット持って打てるようにもなったので、ようやく「テニスしてる」感が出てきました。それまではただの「体力づくり」という名のしごきでした。
秋、11月の初めに新人戦というテニスの試合があり、これが初試合でした。しかしここにも「部員整理」の罠があり、1ゲーム6コロ(0-6)で1回戦負けたら「丸坊主」と先輩から言い渡されました。髪を伸ばし始めた頃に丸坊主にするというのは、ある意味での「退部勧告」のようなものでした。自分はその0-6で負けました…、ただし2回戦で。1回戦が不戦勝だったので超微妙なところでしたが、何とか免除となり髪を伸ばしたまま部活を続けることができました。が、いかにも昭和ですね。。今でもこういう話はあるんでしょうか??
11月、「太陽にほえろ!」が終了しました。
小学生の頃から毎週金曜夜8時の大きな楽しみが…。その後3ヶ月は「PART2」として放送されましたが、石原裕次郎さんのボスは登場せず、11月14日の最終回、それまで5ヶ月ほど欠場し、2、3ヶ月ほど、地井武男さん。神田正輝さんを中心に、誰が主役かもよく分からない状態が続き、8月に渡哲也さんが「警部」として係長代行で主演するようになってからは、視聴率も回復しましたが、裕次郎さんの万全な状態になる事が望めないとされ、番組は終わる事に。。まさに「歴史の転換点」を体験したようなものでした。
「必殺シリーズ」を見始めました。当時の「必殺仕事人Ⅴ・旋風編」でした。22時からのTVって、夜も遅いし親がなかなか見せてくれませんでしたが、しれっと見てるうちに何も言わなくなり…で、見始めましたが、そこからわずか1年後にシリーズは終わってしまいました。。
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