生活と思い出と世の中と(1984年②)
遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。65回目は1984年の第2回です。
この回は、自分の当時の出来事から世の中へと絡める形で綴ります。
●生活
この年は中一から中二になる年でしたが、1月は地元の「とんど祭り」に初参加しました。
地方により「どんど」とか色々言い方が違うようですが、うちの田舎は「とんど」です。
書初めを燃やしたりする行事ですが、それまで冬の早起きが苦手なのと参加する気がないのとで行った事がなかったのですが、行ってみるとなかなか面白いなという感じでした。今もまだ地方により風習は残っているようですが、廃れたところもあるのでしょうか。
この冬、すごく寒かったようで、1月末頃?中一にして生まれて初めての「積雪」を経験しました。うちの地方は雪が降るのも珍しいところで、積もるなんて一大事でした。中学校の運動場で雪合戦をしましたが、これももちろん生まれて初の経験でした。
落語家の林家小染さんがトラックにはねられて亡くなりました。酒が大好きで深酒にまつわるエピソードも少なくない、との事でしたが、こんな最期は…まだ35歳くらいだったけど、すごい貫禄のある方でした。
グリコ・森永事件が世間を賑わせましたが、関西で起こった事件だったので、怖さも感じました。最初はグリコの社長が誘拐され、「グリコ事件」と呼ばれていましたが、森永製菓も標的になり「グリコ・森永事件」と呼ばれるようになていきました。
前の記事にも書きましたが、地元の球場にオープン戦で阪急×広島が来て見に行きました。この年から阪急ブレーブスの大ファンになってしまい、そして日本シリーズではこの両チームが対戦したので、それはもう最後まで楽しんでいました。まさかこの4年後に阪急ブレーブスがなくなるなんて思いもしませんでしたね。いつかは公式戦を見たいと思っていたのが結局叶いませんでした。
ラジオの「歌のない歌謡曲」にハマっていました。ついこないだまで放送されていた大長寿番組ですが、当時歌謡曲よりもインストゥメンタルを聴く方が好きで、「太陽にほえろ!」の各刑事にテーマ曲があったように、身近な友達の「○○のテーマ」を探して、「この曲、○○にピッタリじゃない?」とか友達に聞かせてました。そのネタとして「歌のない歌謡曲」はうってつけだった訳です。
「マイコンBASICマガジン」(通称「べーマガ」)という雑誌にもハマりました。「マイコン」ですから(笑)昭和ですねぇ。 当時のパソコンなんてヲタクのやるものでした。自分もTV画面のついたすごいパソコン?持っていませんでした(憧れでした)が、電卓の延長上のようなポケコン(=ポケットコンピュータ)は、この前年に買ってもらって持っていました。
この雑誌は、一般のパソコンユーザーがプログラムを組んだものが誌上に紹介されていましたが、それに沿ってポケコンでプログラムを組んでゲームを楽しんだりしていました。あと、このポケコンは1つブログラムを組むと、メモリー(「ステップ」といっていました)がそれでいっぱいになるので、増設のカセットインターフェースをつないでデータをセーブしないと、他のプログラムが入れられない状態でした。それでカセットテープにセーブするんですが、それをラジカセで聴くと、ひたすら♪ピーーーピピピッピーーみたいな音が聞こえてきていました。この時代からすると、今みたいにこんなにパソコンが扱いやすくなって、誰でもやるようになるとは夢にも思いませんでした。
↓当時のポケコン。カシオのPB-100(今も手元にあります)
すり切れててスミマセン
お正月に、久々に仮面ライダーの本放送を見ました。この時代仮面ライダーの放送がなく、1981(昭和56)年秋に「仮面ライダー・スーパー1」が終了し、1987(昭和62)年に「仮面ライダーBLACK」が放送されるまで6年間ありませんでしたが、ちょうどその真ん中の時期で、この時単発の特番のような形で「10号ライダー誕生」としてZX(ゼクロス)が登場し、V3の宮内洋さんなどは先輩として登場していました。で、その宮内さんがV3風見志郎の役そのままで、ビデオを見せて先輩ライダーの紹介をしながら、仮面ライダーの歴史を語るのですが、「そのビデオどこで撮ったん?」と中学生ながらに突っ込みたくなるほどでした(笑) ライダーマンの山口豪久(山口曉)さんも出ていましたが、この当時かなりの晩年で2年後くらいに亡くなっていました。晩年は事業に忙しかったといいますが、この時が俳優としての遺作だったそうです。
この時の事で思い出すのは、今みたいにこういう番組は幅広い年齢層で見るものではなく、「中学生にもなって、まだ仮面ライダーなんか見るの?早く卒業しなさい」と親から言われ、それがまた珍しい事ではなかった時代でした。アニメなんて子供の見るものであって、大人になってそんなものみるなんて、小さい子の親でもない限りあり得ない、そんな風潮の強かった時代でした。そういう意味で、今はいい時代だなと思います。
お札が変わりました。新札になったのです。諭吉の1万円札はこの時から始まりました。
五千円札は新渡戸稲造、千円札は夏目漱石でした。それまで一万円も五千円も聖徳太子で、千円のみ伊藤博文でしたが、当時中二でまだ小遣いが月4,000円だったので、五千円札とか万札とか普段見る事はなく、親から見せてもらうのが精一杯でした。
横綱・北の湖が優勝した最後の年でした。この当時の北の湖はかつての「憎たらしいほど強い」横綱の姿は消え30歳も越えて、思わぬ金星を提供したり、長く休場したり、すっかり往年の力は消えていました。それでも1場所は優勝を決め、翌年の両国新国技館最初の場所までなんとか土俵人生を永らえる事ができました。
この時絶頂期だったのが大関・若嶋津でした。全勝優勝を含め2度の優勝で、横綱は時間の問題と言われるほどでしたが、ケガなどに悩まされ結局はその後があまり続きませんでした。その他の事は前の記事で結構書いています。
最後の家族旅行はこの年に行きました。うちは家族旅行という習慣がなく、あっても父の会社の社員旅行に家族も乗っかるというそんな感じでしかなく、両親が出不精で車もなかったので、ホントに旅行に出る概念がありませんでした。大人になって自分が旅しまくってるのは、あるいはその反動かもしれません。で行った先は小豆島でした。3年ぶり2度目に来ましたが、これも父の会社の旅行でした。
中二の新しいクラスになって、特に前半は不遇でした。
中一のクラスが楽しすぎてめちゃめちゃ浮かれてましたが、中二は昼休みに野球しても、チーム決めの時に「取りもん」で一人ずつ取っていくんですが、いつも最後まで残った「残り物」で、実際三振やエラーばかりしてて、スポーツ大会?でもザコ扱いで、スポーツに対するコンプレックスが大きかったですね、ちょっとぐらい馬鹿でもいいからスポーツできた方が良かった、と小さい頃ずっと思ってました。
頼みの勉強も中一の終りから徐々に成績が下がっていき、一学期の期末は自己最低のところまで落ち込みました。
また途中から転校してきた奴に悪い形で目を付けられ、いじめに遭いかける状況で、このまま他の奴からも餌食にされたら「終わる」と思ってました。不登校を考えるようなものではなかったし、学校へ行かないという発想自体がなかったですが、ちょっとまずい状況になってきていました。
しかし、10月が来ると何もかも好転、そいつがまた転校することになり、状況が一変、何の心配もない状態になりました。野球でも時々は活躍したりホームラン打ったり、どうしようもない状況から抜けました。これぞ運です。運以外何物でもなく。
クリスマス前後に忘年会的な形で、小学校からの仲良し4人で集まってお菓子買いまくってパーティーをしました。中学時代のこういうパーティーって単純に楽しかったですね。友達の家にカラオケ機器(!)があって、カートリッジをガシャっとはめてBGMが流れてくる奴で、当時まだ近所にカラオケBOXなんてないし中学生だし、というのでこういう機器がある家って「すごい」って感じでした。歌える曲がすごく限られてて、演歌中心でアイドルポップスが少々って感じでした。
こんなかんじで昭和50年代の最後が過ぎていきました。
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