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日記・コラム・つぶやき

2024年6月15日 (土)

1982年・通った塾の事

前々回、1982年②として、当時の生活の事を書きましたが、その中で当時の「塾通い」について、これに特化した内容を今回は単体記事として書きたいと思います。

このブログもほとんど読まれなくなったし、現在住んでいない街の事、現存しない団体の事、遠く40年以上前の昭和の事、であることから今回、自分の脳内だけに留めてきたものを文にして出力する事にしました。なので色々具体的な名前を出しますが、そこんとこよろしくってところで(笑)

さて、その塾とは前回も少し書きましたが「兵庫県教育テスト協会」という団体で「H.T.A.」などとロゴが添書きされていましたが、地元では長谷川塾とかいっていたり、俗には「英才教室」とか「英才」とかいわれ、そこに小学5年生の3月から約1年間通っていました。私立中学を受験する為の塾で、当時では淳心学院や白陵といった中学、上位者になると灘中学なども視野に入っていました。

塾の正式名称が正直よく分からないままでした。というのも、「○○塾」などと看板下げているものではなく、毎週土日に当時の姫路駅前の三井生命ビル9Fのスペースを借りて開講されていただけのものだったのです。あくまで先述の「協会」が本部で、それは別の所にありました。姫路市北条口だったか。

最初の入塾で、教材を買いに行き、しかも塾に「制服がある」のにビックリでした。「必勝」の文字の入ったハチマキも買い、受講中は「ゼッケン」をつけていました。「1333 ○○(自分の名前)」な感じのゼッケンを首にかけて、前と後ろにその表示が見えるようになったものでした。この番号、「鎌倉幕府が滅んだ年や」とかよく仲間の塾生から言われてまし(笑)

最初は土曜コースと日曜コースが選べて、土曜は学校から帰って昼から晩まで、日曜は朝から3時ごろまでの感じでした。正確な時間は忘れましたが…

自分は日曜コースにしましたが、小学6年生の頃は人並みの日曜日はありませんでした。友達と遊んだりとか、そういうのがなかったですね。人並みに遊びたかった、と正直少し後悔はしてます。良い経験にはなりましたが。日曜日の自由時間はほぼ午後4時以降でした。普段は学校の給食でしたが、日曜だけは母が毎週お弁当を作ってくれたのは今思えば感謝しかありません。

日曜には塾へ行くので、土曜の晩はそれまでの宿題をやっておかなければならず大変でした。「俺たちひょうきん族」を見るのもそこそこに、宿題をこなすのにいっぱいいっぱいでした。私立中学の入試問題がセットになった分厚い本と格闘して…それが小6の土曜の夜の過ごし方で、パラダイスとは程遠いものでした。

田舎住まいで外出しない家だったので、市の中心駅までバスで出てくるなんてそれまでほぼなくて「なんて都会なんだ!」と思いました。
通学路に信号がほぼなかったので、街へ出ると信号はあるわその時に音も出るわでビックリでした。そして何より人通りがいつも過ごしていた校区内の比ではありませんでした。

その塾は国算社理の4科目の開講で、それぞれに先生がいましたが、どう見ても50代以上、中には60代以上の先生もいたかもしれません。

算数の先生が、そのテスト協会の理事長でしたが、長谷川○男という方でした。当時57歳くらいの方で。国語の先生は三木○という方で60歳を越えていたかも、じじい丸出しのような言葉遣いで朴訥とした中に時々ユーモアも飛び出していました。理科の先生は名前知りません。豪快なキャラの方で、社会の先生は逆にまじめ風ののほほんとした感じの方でした。

他に、理事長の息子で「若先生」と呼ばれる方が時々出てきてました。何も教えないのに「先生」はないだろと思っていましたが、青ひげの濃い豪快そうな感じの人物でした。

毎月1度はテストがあって、順位や偏差値なんかも出されて、小学校生活にはそんなものはありませんでしたが、ここで学ぶと小学生からそういうものを知る事となりました。

夏には、塾の修学旅行もありました。小学校で行ったのと同じ伊勢志摩!しかしやる事が違くて「地曳網」なんかやって、海藻を標本に採ったりしました。帰りのバスのテレビは「太陽にほえろ!」のビデオが流されていたのを覚えています。

10月からは木曜の学校帰りに行なわれる「木曜特訓」がスタートしました。学校帰って、夕方に市内の中心地へバスで行き、この特訓は毎週姫路市民会館で開催され、夕食は地下のレストランでとっていました。
これで木曜日に放課後は友達と遊ぶことがなくなり、毎週見ていた21時からの「ザ・ベストテン」もほとんど見れなくなりました。塾が終わると帰りは終バスの21:35で、バスで20分、徒歩5分くらいで帰ると22時前後になっていて、たまに1本早い21:00発のバスに乗れると、半分弱くらい見れたかな、というところでした。

その後は土曜日も「土特」と称して放課後の授業…、どんどん勉強に傾き、普通の小学生生活は奪われていきました。半分望んで、半分望まなかった私立中学の受験…、後悔が2/3で良い経験が1/3というところでしょうか。。

そして年末は「ジャンボ宿題」なる、大量の宿題を家でこなして、年明けに持って行かなければいけない、というものがありました。何題問題を解いたのか…????

夏休みも冬休みも「集中講習」があり、そして2月は追込みという事で受験前の最終週は月~金まで集中講習で、この時は1週間学校を休ました。小学校の先生からは、国算社理以外の科目をさぼってたら承知しない、と公衆の面前で言われました。今なら問題発言ですが、当時は言われてもただ受け止めるだけでした。

その週が終わったら、塾の卒業式?がありました。姫路商工会議所で。最後に理事長の気合入れという事で握手をしたのですが、なぜかうまくいかず「気合を入れてやりよんじゃないか」と言われました。。

私立中学受験前に、その勉強の日々は終わりましたが、辛さと良い経験のないまぜの1年間、結局受験には落ちて、公立の中学行く事となり、3月末には坊主頭にしました。ひょっとして坊主頭にする必要がなければ、すんなり公立中学へ入って、もっと小学生らしい生活を謳歌できたのかも…と思う事もありますが、人生に山谷あってそれはそれでよかったのかもと感じます。

 

2024年4月20日 (土)

生活と世の中と思い出と(1982年②)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。73回目は1982年の第2回です。

当時小5から小6にかけての年でしたが、1回目と逆に当時の暮らしから、世間の様子と絡めてお送りします。

 

●小学生生活

「中学受験」

 …うちは公立の中学に上がると男子は坊主頭になる(強制的にさせるそういう時代でした)ので、という理由で私立中学を志し受験勉強を始め、前年後半から月に1度テストだけは受けていましたが、この主催元の塾に入ろうってことで、1月に入塾許可が出て、3月に教材・制服諸々揃えに、市の中心駅近くへ行きました。
 塾に制服があるなんて…って感じですが、ブレザーというものを小学五年生にして生まれて初めて着ました。
 そして3月からは、毎週日曜は終日塾通い、これが1年間続きました。小学生で日曜日を完全に潰してしまうのが、勿体なかったと思います今では。でも母親が毎週弁当を作ってくれたのは感謝でした。日曜の朝くらい寝たかっただろうに。

 この1年間をもう少し小学生らしく過ごしたかった、と後悔もしています。経験としては良かったですが…。
 これもあって、中学からはどんなに親に言われても塾だけは行きませんでした。だったら家で勉強する、と主張して。

 春休み夏休みは「特訓」と称しての講習参加でした。自分の中ではみんなとおんなじ小学校生活は5年で終わったような感覚で、6年生も普通に通ってはいましたが、勉強ばっかりしてる感じでした。

 ただ普段はろくに電車の駅もないような田舎の、狭い世界での暮らしだけだったのが、塾へ行くことによって、市の中心部の賑わいを知ったというのは見分を広めた意味では良かったのかもしれません。

ちなみにその塾とは…

兵庫県教育テスト協会なるところが運営する「英才教室」と地元では言われていたところでした。◯◯塾的な看板は掲げておらず、長谷川塾とか英才とか俗称しか分かりませんでしたが…。後の記事でこれに特化して書こうと思います。

 

「激動の太陽」

 …そんな中学受験勉強をしていましたが、好きなテレビは最低限は見させてもらえた感じでした。
 その中でも特に大好きだったのは「太陽にほえろ!」でした。
 そしてこの年は3人の刑事か殉職、1人が転勤という「激動の時代」で、すっかり様変わりしてしまいました。

 詳しくはドラマ編にて書きますが、初めて90分スペシャルという拡大版も放送され、番組放送開始10周年の節目を迎え、目まぐるしい状況でした。この時「太陽にほえろ!は終わった」というファンもいたくらい、変わってしまいました。

 

「リキ殉職」

 …「太陽にほえろ!」と共に、当時の小学生にとって人気を二分した刑事ドラマといえば「西部警察」でした。
 3月に寺尾聰さん演じるリキこと松田刑事が壮絶すぎる殉職を遂げ、その後石原プロ破門のニュースがまた衝撃でした。
 前年「ルビーの指環」の大ヒットで、歌にドラマに世を牽引してといってもいい寺尾さんが、急速に姿を消したように見えました。

 そういえば、クラス新聞みたいなのを教室の後ろに並べ立てた時に、このリキ殉職を知らせる新聞記事を貼っていた子がいた事を思い出しました。

 

「委員会活動」

 …小学5年生から学校で始まったのが「委員会活動」でした。「クラブ活動」は4年下半期から始まったのですが、より大人の世界に足を踏み入れて感覚でした。

 そして6年生の最初にはクラスの「委員長」というものがなくなった代わりに、「代表委員」というものを選出し、中学でいう生徒会的な活動へ送り出される事となり、それまで委員長には一度も選ばれなかった事のなかった自分が、その代表委員に選ばれてしまいました…。中学受験という制約された状況で、学校の活動を人よりしないといけない、という事で嬉しくないどころか、泣くほどでした。やってみればいい経験にはなりましたが、厳しい面はありました。

七夕行事だかで、体育館で全校児童が集まる中、七夕の説明をしていましたが、セリフが飛んでえーっとえーっとみたいになり、この時が大勢の人前で喋る初体験だったと記憶しています。

 

「修学旅行」

 …6年生という事で、いよいよ「修学旅行」でした。
 それまで小学校の旅行で、ほぼ兵庫県を出た事がなく、また泊まりの旅行は前年の林間学校以来2度目でした。
 行先は「奈良」と「伊勢」でした。
 初奈良県、初三重県で、奈良の大仏の鼻の穴をくぐり鹿に餌をあげて、伊勢では二見ヶ浦の夫婦岩を見ました。
 どこに泊まったか覚えてないくらい、当時は地理に無頓着で、どっちかというと苦手科目でもありました。

 クラスの出し物で劇みたいなのをやってましたが、自分は「天の岩戸」で、岩戸に隠れていたので姿見せずでした(笑)

 

「川まつり」

 …地元の川の「川まつり」というのが毎年5月にありましたが、この年は鼓笛隊ということでクラスで参加し、河原の道を友達とリコーダー吹きながら歩いていました。去年30年ぶりに地元へ戻って、川まつりに40年ぶりに参加しましたが、今でもこの時の事を原点として思い出します。

「塾のバス旅行」

 …先述の、制服を着る塾が夏休みに「修学旅行」へ行くという事で、これがまた「伊勢」でした。
 学校とちょっと違ったのが「地曳網」をした事でした。回想の標本をとったりなどして。
 帰りのバスでビデオが流されていましたが、これがなんと「太陽にほえろ!」でした。当時の小学生にもいかに人気だったかという事で。
 ただ、小学生には少し難しい「長さん」主演回でした(笑)分かり易いアクション回とかじゃなくて。

「親戚宅へ1週間」

 …夏休みに、父を除く家族で伯母宅へ1週間もお邪魔しました。
 いろんな事がありましたが、そこから塾へ行ったりして、また普段とは違うバスルートに乗ったりと新鮮でした。
 伯父が見ていた阪神戦のナイターを「"王貞治物語"が見たい」とわがままを言ってしまい、当時はわがまま極まりないガキだったのを今でも恥ずかしく思います。しかし王選手(当時、助監督)を描いた特番ドラマは正直見れて良かったです。

「ハイベスト事典」

 …これも夏ごろに、いつの間にか百科事典が10数冊買いそろえてありました。
 自分向けなのか、親が自分の為にも兼ねて買ったのかわかりません。別にこれを見て勉強しろと言われた訳でもないので。
 当時「学研」の発行していた教科事典で、今でもたまにオークションで見かけます。
 これで特に歴史なんかは色々勉強したというか知識が広がった感はありました。

「ALBAウォッチ」

 …この年、自分の誕生日に運動会があり、徒競走がそれまでほぼビリかそれに近かったのが、2位を獲って嬉しかったものでした。
 学校から帰ったら、親がALBAの腕時計を誕生日プレゼントとしてくれました。生まれて初めての腕時計でした。 
 ALBAというのはSEIKOの時計ブランドのひとつで、この時計はデジタルでしたが、曜日表示があったのも嬉しかったです。
 また、腕時計のバンドに巻く小さなカレンダーを挟んでみたり、大人の世界に足を踏み入れた感がありました。

「木曜特訓」

 …3月から毎週日曜に塾通いをしていましたが、10月からは追加で毎週木曜日も通う事となり、学校から帰ったらバスに乗って市の中心部にある塾へ行き(塾へはバスで20分ほど乗って通っていました)、「木曜特訓」略して「木特」と呼ばれる夜の授業がありました。終わると21時ごろになっていて、塾から市の中心部にあるバスターミナルへ10分ほど歩いて、最終バスの21:35発に乗って家に帰ると22:00頃でした。
 小6でよくやってたな、と思いますが、この時は父親が駅から遠い職場からわざわざ歩いてバスターミナルへ来てくれて、一緒に帰ってました。会社で働いて21:30とかに待ち合わせて、22:00帰宅で明日また仕事…ってこれも大変だっただろうな、と今にして思います。その父はもう亡くなりましたが…。

 木曜日は「ザ・ベストテン」を欠かさず見ていましたが、この特訓により10月から翌2月までは全く見れなくなってしまいました。当時うちはビデオもなかったので、せいぜい母がラジカセに録音してくれたら聴けたかなというところですが、ほとんど諦めていました。

 

「ジャンボ宿題」

 …これも塾がらみで1983年の記事で少し触れましたが、年末の冬休み期間中に仕上げる事、と塾の厳命でやり遂げなければならなかった、大量の問題解きがあり、これを「ジャンボ宿題」とよばれていました。冬休みもろくにありませんでしたが、この時「はりま焼」というせんべいの砕いたやつのお徳用を食べながらやっていました。

2024年3月24日 (日)

生活と世の中と思い出と(1982年①)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。72回目は1982年の第1回です。

当時小5から小6にかけての年でしたが、この年に起こった出来事と自分の暮らしとを結びつけて綴っていきます。

 

●ニュース

「ホテルニュージャパン火災」

 …とにかくこの言葉と社長の名前だけが耳によく飛び込んできていました。

 大きなホテルの火災で死者が出たという事で大変ニュースになっていました。

「日航機羽田沖墜落事故」

 …ホテルニュージャパン火災の翌日に起こった大規模な航空事故でした。今年の1/1、1/2と連日で大変な事故が起こりましたが、この時の事を思い出しました。
 この事故では「逆噴射」という言葉が大変飛び交い、それまで殆どの人が知らなかったこの言葉を皆が知ったように思いました。

「テレビ大阪開局」

 …関西には、それまでテレ東系の局がなく、一部の番組をキー局の時間帯に振り分けて放送されていました。
 なので「東京12チャンネル」系の番組って、朝日放送とか関西テレビとかサンテレビとかのどこかの時間帯で、遅れネット的に放映されたりすることが多く、その系列局として、この年「テレビ大阪」が開局しました。
 しかし、うちはテレビ大阪の電波をアンテナで拾えなかったので、全然関係ありませんでした。

「500円硬貨登場」

 …それまでの500円札に代わって、「500円玉」になりました。

 500円って札だった事もあってか小学生には少し高いもののように思えましたが、コインになってから少しチープになったような気がしました。岩倉具視の500円札がいまとなっては懐かしい限りです。

「東北・上越新幹線開業」

 …それまで新幹線といえば、東京から博多の東海道・山陽新幹線しかなくて、この少し前に上岡龍太郎さんが関西ローカルで司会をされていた平日帯のクイズ番組「クイズ新幹線」でも、東京から博多までしかありませんでした。
 これに新しい新幹線路線が加わるという事で、東北にまで新幹線が伸び、更に少し遅れて上越新幹線も開通し、新幹線の新たな歴史の転換点となりました。

「横浜スタジアム審判集団暴行事件」

 …夏休み最後の日に起きた、阪神タイガースのコーチらによる審判の判定を巡っての審判への暴行事件でした。

 昔のプロ野球は「揉め事」「乱闘」はしょっちゅうで、半ばそれを楽しみに見ていた部分も正直ありました。子供心にもちょっと行きすぎだろうという感じでしたが、当事者のコーチ陣は当初永久追放といわれていましたが後年現場復帰しています。

「西武初優勝

 …西武ライオンズが新生球団としてスタートして4年目でリーグ優勝および日本一を達成しました。
 ヤクルトを指揮していた広岡監督による優勝劇で、前身クラウン時代は最下位争いをしていて、西武1年目も開幕から12連敗するほど弱いライオンズでしたが、福岡から埼玉所沢への移転、選手の数多い入替等で戦力を充実させ、この優勝に繋がりました。

「中曽根内閣発足」

 …鈴木善幸首相の退任を受けて、自民党総裁選というものを生まれて初めて見ました。
 地元の河本敏夫議員も出馬しましたが、中曽根氏に敗れ、後の安倍晋三首相の父である安倍晋太郎氏も敗れました。もう一人敗れた候補は自殺し、これもまた話題になりました。

「E.T.公開」

 …大変話題になった映画でした。月をバックに自転車こいでたり、人差し指同士をくっつけ合わせて「ET!」ってやってました。翌年の「新ハングマン」で初主演としてひとり立ちした名高達男さんのコードネームは「ET」だったし、うちの近所の喫茶店の名前も一時「ET」になった時期がありました。

「三波伸介さん急死」

 …今も続く毎週日曜夕方定番の「笑点」の司会を務めていた三波伸介さんが52歳の若さで急死され、番組は急遽後任の司会者選定に迫られ、5年前まで大喜利メンバーだった三遊亭圓楽(5代目)さんが番組に司会として復帰という形で就任しました。圓楽さんの解答者時代をかすかに覚えていたので違和感ありませんでした。この圓楽司会時代は笑点の安定期というか黄金期といってよいかと思います。

 

2024年3月17日 (日)

生活と世の中と思い出と(1983年④)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。少し空きましたが71回目は1983年の第4回です。

今回は、この年に見た再放送ドラマや、本放送のアニメやバラエティその他テレビ番組、そしてラジオ番組などについて触れていきます。

 

●ドラマ(再放送)

「西部警察」

 …当時は「西部警察PARTⅡ」の本放送中でしたが、最初の無印「西部警察」の初めての再放送がされていました。

 初期は本放送時見てなかったので、初めて見る作品も多々ありました。

 

「太陽にほえろ!」

 …これまた沖雅也さんのスコッチ刑事登場編からの再放送でした。
 その後スコッチの転勤を経てもまだ続き、ボン(宮内淳さん)単独編の短い期間の途中で唐突に終わってしまいました。
 しかしその翌月に沖雅也さんが自殺してしまうとは…衝撃すぎました。

 

●アニメ

「愛してナイト」

 …同時期やっていた「ときめきトゥナイト」と混同されがちですが、ミッチこと堀江美都子さんと佐々木功さんというアニメ界のプリンスとプリンセスのような二人が声優として恋人同士になる役柄で共演したアニメでした。
 佐々木さんの演じたバンドマンの役柄が「加藤剛」ってマジかよ?と子供心に思いましたが、ふんわりリーゼントの金髪に先端だけ赤毛というすごい髪型のキャラでした。

「アルプス物語 わたしのアンネット」

 …世界名作劇場の作品で日曜日に見ていましたが、従来の作品が健気に生きる幼い主人公、というのに対して、ナントも救いようのない恨みや憎悪に満ちた作品、の印象が強くありました。主人公自身が弟を崖に落とされる事故を誘発した友達を強く恨み続けるという、この枠の主人公にはありえないキャラだったので。

「伊賀野カバ丸」

 …少女漫画タッチの忍者アニメでした。
 高校に転校してくる忍者のカバ丸と同級生の麻衣が事あるごとにぶつかりながら、互いの思いは…?みたいな感じもありましたが、基本ギャグアニメかなと勝手に感じていました。カバ丸の食べる大量の「やきそば」がすごくうまそうでした。
 OP・EDともシュガーが歌っていましたが、EDはちょっと儚げで、これ聴いて明日は金曜日か…と思って学校へ行くとして教科書やノートを鞄に詰め替えたりしてました。
 
 後にジャパンアクションクラブ(JAC)のホープ3人組(真田広之さん、黒崎輝さん、高木淳也さん)を中心としたキャストで実写版映画も制作され、師匠である千葉真一さんも出演していました。映画では黒崎さんがカバ丸を演じ、三の線も必要なこの役柄で三人組の中では彼が最適だったように思います。

「キャッツ・アイ」

 …美人三姉妹による怪盗のアニメで、北条司先生の出世作でした。
 アニメはなんとなく時々目にした程度でしたが、杏里さんの歌う同名主題歌が大ヒットして歌番組でも披露されていました。
 いわゆるアニソンとしてベストテンにランクインするヒットをした元祖のような曲だと思います。

「キン肉マン」

 …あまり見ていませんでしたが、時々見た程度で、最初はプロレスのギャグアニメかなと思っていましたが、結構ガチなバトルものの印象を受けて興味が薄れたように記憶しています。

「パーマン」

 …日曜朝9:30枠の藤子不二雄作品3作目として1979年「ドラえもん」1981年「忍者ハットリくん」と2年おきに変わっていましたが、この4月からスタートしました。月~土の帯番組15分枠で放送したものを、日曜日なりに30分枠として再放送的にやっていたといいますが、関西では帯番組はなく単に毎週日曜の朝番組としてだけ放送されていました。
 元々「コロコロコミック」なんかで見ていたので知っていた作品で、遂にアニメ化されたか!とそんな感じでした。
 EDのフレーズで♪君のクラスのいちばんうしろ いちばんうしろ パッパッパッパパーマンはそこにいる というものがあって、当時中学校で一番後ろの席になった時「おまえ、パーマンか?」と言われたものでした(笑)

「じゃりン子チエ」

 …元祖・大阪弁アニメとして81年から放送が続きましたが、この年3月に終了しました。「最終回とはいうものの…」というタイトルで、継続を密かに期待していましたが、ここで終わり。夏休みに「じゃりン子チエ大会」として全編再放送された時はもうずっと見てました(笑)
 個人的にマンガをあまり読みませんでしたが、これだけは高校生になっても読んでました。

 

●バラエティ/クイズ等

「欽ちゃんの週刊欽曜日」

 …スタートしたのは前年10月でしたが、個人的に見始めたのがこの年からでした。
 風見慎吾さんの「僕笑っちゃいます」が流行り始めた頃でした。
 これがコニタンか…とか、これがちなみショーか…とか思いながら見てました。
 「ちなみに」って今では一般化してますが、この番組キッカケで言われるようになったのでは…?と思います。
 佐藤B作さんもこの番組でブレイクしたといえます。名前だけは知ってましたが、それにしても「B作」ってなんだよ?と思いました。
 佐藤栄作氏から来てると知っていても。

「欽ドン!良い子悪い子普通の子おまけの子」

 …1981年に「欽ドン!良い子悪い子普通の子」としてスタートしていましたが、このタイトルでの最終年となった'83年は二代目「フツオ」の後藤正さんが引退し、「フッくん」「ツッくん」「オッくん」の3人で「フツオ」をやっていて、全員がずぶの素人でしたが、「はじめてだから」ってそういう感覚で見てました。

 そして、10月から番組名に「おまけの子」を追加して内容をリニューアルして出演者が激増しました。
 欽ちゃんの妻役にアクション女優として名高い志穂美悦子さんが起用されたのは驚きでした。この頃から山口良一さんのポジションが上がった?感が顕著で、この妻コントに良い・悪い・普通の姑の3役を演じ、「欽一」と呼ばせていました(笑) 
 研究レポートなどのコーナーで、山口さんが志穂美さんの師匠に当たる千葉真一さんのマネで「悦ちゃん!」とすごむシーンが笑えました。
 先述の3人のフツオはオッくんこと境田晃一さんが選ばれ一本立ちし、「おまけの子」として遠藤由美子さんが起用されました。
 そして先生コーナーか新設、良い先生役にあの柳葉敏郎さんが起用され、銀縁メガネで東北弁丸出しでまさか後年あんな風に時代を引っ張る役者になるとはその時全く思いませんでした。
 
 この番組のエンディングはハガキの当選者発表で、今の時代ではありえない「○○県 ○○○○○さん」みたいな感じのテロップが流れてて、この時代はこれが普通でしたが、これを見ると「月曜も終わったな」と感じながら、次の火曜の支度をしていました。

「世界まるごとHOWマッチ」

 …大橋巨泉さん司会のクイズ番組で、世界のいろんなものに対する値段を当てる番組です。レギュラー解答者が石坂浩二さん、ビートたけしさんと豪華で、ケント・ギルバートさんやチャック・ウィルソンさんなど外国人有識者枠もありました。
 この番組でブレイクしたといっていい小倉智昭さんのハイテンションなリポートナレーションも大きな顔でした。

「たけしのお笑いサドンデス」

 …素人がギャグを披露して、それを審査員がジャッジする番組で、当時たけしさんの冠番組は多くありましたが、視聴率の振るわないものも結構あり、この番組は9ヶ月で、その前後の番組は2、3ヶ月で終了する事もザラでした。

「タケちゃんの思わず笑ってしまいました」

 …ビートたけしさんによるギャグコント集で特番形式で、年に数回放送されていました。
 一番記憶にあるのは「太陽にほえろ!」のパロディーで、よくありがちな形式で一旦作って、たけしさんが解説者に扮してそれらのシーンの「クサイ」演技を色々と指摘し、その上で「リアリティーのあるものだとどうなるか」を再現コントで流していたもので、また出てくる役者陣が加納竜さんや荻島真一さん、小野進也さんなど普通に刑事ものとして通用するレベルの役者を揃えて、あえて対比ドラマを作っていたのが面白かったです。

「わくわく動物ランド」

 …関口宏さんが司会の、世界各国の動物たちに因むクイズ番組で、後にエリマキトカゲやウーパールーパーなど話題になりました。

 

●ラジオ番組

「理恵と歌おう」

 …「三菱ドライビングポップス」の冠のついた番組で、何代かの方がパーソナリティーを担当していて、たしかこの前年に中原理恵さんが担当されたと思いますが、この4月から聴き始めました。月~金は夕方17:34~数分の帯番組で、日曜には昼に30分枠で放送されていました。

中原理恵さんが「欽ドン」降板後しばらく見かけなくなってから、この番組でそのコミカルなトークを聴いていました。

「世良公則 ちょっとイカした10 o'clock」

 …前年からスタートしたようですが、この年4月から聴き始めました。
 10時スタートなので10 o'clockというタイトルですが、「イカテン」とよばれていました。あの「イカ天」が流行る何年も前で、自分の中でイカテンといえば、このラジオ番組の方です。
 当時の世良公則さんは「太陽にほえろ!」出演中だったので、共演者がラジオにゲストで参加していて、そういう回はなぜかあまり聴けませんでしたが、神田正輝さんがゲストで登場し「兄貴」「いっちゃん」と呼び合ってた回を「録音」していました。

「サンデー・ダークダックス」

 …ダークダックスがホストになって、マンスリーゲストを迎えてトークする番組で、1965年スタートのこの時既に18年を迎えていた長寿番組でしたが、彼らの年代とは全然下の若い歌手やグループとの交流を時々耳にしていました。

2024年2月 4日 (日)

生活と思い出と世の中と(1983年③)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。70回目は1983年の第3回です。

当時見ていた、あるいは見ていなかったけどリアルで知っていたテレビ番組を中心に振り返ります。
当時小6~中1だったので、ドラマについては後者の方が多いですが…

 

●ドラマ

「明石貫平35才」

 …見ていませんでしたが、西田敏行さんがかつて自身が主演し人気を博した「池中玄太80キロ」のようなドラマに主演するという事で話題になっていました。また西城秀樹さんのドラマ出演も珍しく、当時髪を短くしたばかりだった事もあり話題になっていました。

「暴れん坊将軍Ⅱ」

 …前作の「吉宗評判記・暴れん坊将軍」が4年以上続いた後、西郷輝彦さん主演の「葵の暴れん坊」を挟んで、第二シリーズとしてこの年から放送され、やはり4年間続く事となります。
 このシリーズでは御庭番が交代し、荒木茂さんと朝加真由美さんが登場、最後までこのコンビで4年間続けることとなります。
 また初期のみでしたが、堤大二郎さんが演じる津川文之進を登場させて、新風を吹き込んでいましたが、半年余り退場する事となりました。

「大奥」

 …15年前に同じ「大奥」として1年間放送されていたもののリバイバル版で、このシリーズもまた1年間かけて大河ドラマ的な構成で大奥の攻防を描かれていました。基本見ていませんでしたが、当時放送中に徳川家光役で出演していた沖雅也さんが自殺した事もあり、ちょっとだけ見ていました。実際には彼が自殺したその日が、このドラマでの彼の出番の最終回と偶然重なっていました。

「オサラバ坂に陽が昇る」

 …リアルでほとんど見ておらず、当時読んでいた学習雑誌に、伊藤つかささんにスポットを当てたコーナーがあり、そこで柴田恭兵さんの横顔が写っているのを見ました。タイトルから石坂浩二さんの主演かと勝手に思っていましたが、実際は矢崎滋さんの主演でした。

「おしん」

 …国民的知名度を誇ったNHKテレビ小説で、1年間にわたって放送され、大ブームを起こしました。主演した小林綾子さんが大人気を得て、また「耐え忍ぶ」事の代名詞的にも「おしん」が使われ、当時苦難の末に糖尿病を克服して横綱になった隆の里関は「おしん横綱」と呼ばれました。

「おゆう」

 …タイトルからしてなにかと「おしん」と比べられた、こちらは民放のポーラテレビ小説のドラマです。

 放送開始の時期は「おしん」と同じで、主演したのは後にTBSのキャスターになった浜尾朱美さんで、元々キャスター志望もあり、女優はこれ以降ほぼせずにキャスターへ転身しました。

「女7人あつまれば」

 …当時見ていませんでしたが、シブがき隊が出演していたという事で、学習雑誌に載っていて、その付録の写真だかで、彼らがバイクに乗った姿がありました。なので他の出演者が誰か全然知りませんでしたが、加山雄三さん主演と知ったのは後年の事でした。

「家族ゲーム」

 …長渕剛さんがテレビドラマに進出した初作で、石野真子さんと離婚直後もあり話題性はありました。当時はまだ「順子」しか世間的に知られてない感じで、ここで主題歌だった「GOOD-BYE青春」が売れて、歌手としての存在感を上げつつ、破天荒な家庭教師役で役者としての存在感も注目され始めました。同年に映画版で松田優作さんが主演していました。

「金曜日の妻たちへ」

 …「金妻」の初作で、3部作はこの年から始まりました。これまたあまり見ていませんが、前年に「太陽にほえろ!」のゴリさんを10年勤めあげた竜雷太さんが、同じ金曜日のこの番組にレギュラー出演していました。

「外科医 城戸修平」

 …これも見ていませんが、中村雅俊さんにスポットを当てた雑誌記事でその存在を目にしました。中村さんが外科医に扮して周囲の人々との交流を描く姿を後年見ましたが、この翌年に文学座の後輩にあたる渡辺徹さんが主演した「風の中のあいつ」の源流のようなドラマと感じました。中村さん自身の歌う主題歌「燃える囁き」が印象的でした。♪生ーきてーみてー のフレーズがずっと頭の中に残っていて。

「高校聖夫婦」

 …これはリアルで見ていました。

 鶴見辰吾さんと伊藤麻衣子さんの高校生にして疑似夫婦ものというショッキングなストーリーが話題になり、いとうまい子さんを女優として初めて見たのがこの作品で、厳密にはデビュー作ではありませんが、実質世に出た作品としても知られます。
 突然ラジカセ(!)をセットしてみんなの前で二人で踊り出すとか、大映らしい荒唐無稽さがここにもありました。

「積み木くずし」

 …前項の「高校聖夫婦」の前番組である大映ドラマで、俳優・穂積隆信さんの娘に関する体験記が原作となったドラマで、これは親と一緒に見ていました。それこそ親が一緒に見るように促してきて見ていました。
 不良少女役を「欽どこ」ののぞみちゃんこと高部知子さんが熱演、バイオレンスぶりが芝居とは思えない迫力で怖かったのをよく覚えています。母親役の小川真由美さんはこのドラマで知りましたが、こんなにも辛い事ばかり続くのか、ってぐらいの気持ちで見ていました。父親役が前田吟さん、当時まだ「ぎん」と読むのを知らず、勝手に「まえだ こん」さんだと思っていました。
 カウンセラー役で古谷一行さんが電話で応対していましたが、当時は事務的な印象を持っていました。熱く誠実に対応されているのを後年見て感じましたが、当時は「なんで助けに行かないんだよ」とか勝手に思っていました。
 壮絶なドラマと思っていましたが、その後高部さんがあの事件で急に消えるとは、当時思いもよりませんでした。

「スチュワーデス物語」

 …今ではこの言葉を使用しなくなりましたが、これまた大映ドラマで、劇中のいろんなセリフが一大ブームを巻き起こした作品でした。
 実際の主演は村沢教官役の風間杜夫さんで、当時「蒲田行進曲」で人気を博していましたが、テレビドラマではこの役で一気にブレイクし、そのハンサムぶりが注目され、レコードも出してこのドラマの挿入歌としても起用されました。

 実質的な主人公は「ドジでのろまな亀」と自称するスチュワーデス訓練生・松本千秋を演じた堀ちえみさんでした。
彼女の体当たりの演技と大映ドラマらしいセリフが大きな話題となって、世間的にもそうでしょうし、我々の通っていた学校でも随分話題になました。「ジャンプ!ジャンプ!」の掛け声や「鶴のマークのおねえちゃん」なんかもそのひとつでしたし。
 脇で支えるキャラが強烈なのも大映ならではで、父親役の長門裕之さんがめちゃくちゃ怖かったですね、後妻の連れ子である千秋にとにかく辛く当たりまくって。風間さんの上司役が石立鉄男さんで、厳しく優しい当時の理想の上司にあがっていたかは分かりませんが、そんな役柄でした。漫才の春やすこさんがドラマに出ていたのもビックリでしたし、長髪が魅力の高樹澪さんが劇中でいきなりショートカットにしたのもある種の衝撃でした。

「事件記者チャボ!」

 …水谷豊さんが主演した事件記者モノで、新聞記者としての活躍を描いたものですが、後に妻となる伊藤蘭さんと「あんちゃん」以来半年ぶの共演で、当時は「また共演したのか」ぐらいな感じで見ていましたが結婚した時はビックリでした。
 このドラマでの水谷さんの髪型が、前髪の真ん中部分を鶏の土坂のうにチョロっと出して上にあげた、まさに「チャボ」とよばれるスタイルだったのが印象的でした。
 半年間放送され、その後1984年春に渡辺徹さん主演「風の中のあいつ」へバトンタッチされました。その前の1983秋にはこの新旧主演(当時まだ決まっていませんでしたが)同士の主演する映画(「夜明けのランナー」「逃れの街」)が併映されていました。

「新ハングマン」

 …リアルではあまり見れませんでしたが、ハングマンシリーズ3作目で、それまで2作が続きものであったのに対して、キャスト・設定を一新したもので、それまで準主演格で「デジコン」役で人気を博した名高達郎さんがそれまでと異なる役でしたが主演として一本立ちし、文字通り「ハングマンの顔」となった作品です。

 女性ハングマンに早乙女愛さんが扮した事も話題になりましたが、ハングマンのリーダー的な役どころに山城新伍さんが扮し、エロおやじぶりを発揮していたのが印象的でした。ただ、ハングマンの若手メンバーは有名にならない、のジンクスがあるのか、ここに出ていたヌンチャク役の小林竜一さんという方はその後あまり見かけることがなくなりました(関西ローカルドラマには出ていましたが…)

「青春はみ出し刑事」

 …日本テレビ系で土曜日に放送されていた30分ドラマで、当時この枠はずっとJACに在籍していた高木淳也さんのドラマで「カンフーチェン」のシリーズが放送されていましたが、同じ高木さんの主演で今度は刑事ドラマとなった格好です。

 それまで刑事ドラマは乱発のように何かしら新作が出ていましたが、1982年頃からは人気長寿ドラマだけが残る格好となり、新作もそのシリーズ(「Gメン'82」「西部警察PARTⅡ」など)ぐらいしか制作されなくなってきていました。この年久々に30分とはいえ新作のアクション刑事ドラマが放送され、個人的には楽しみで毎週見ていました。
 高木淳也さんと堀広道さんのはみ出しコンビがドジを繰り返しつつ事件にあたるドラマで、マスコットガール的立ち位置に当時新人アイドルだった森尾由美さんが扮し、「積木くずし」で話題になった穂積隆信さんがその上司役でした。
 この当時はJACの若手トリオが大人気で、真田広之さんを筆頭に、黒崎輝さんと高木さんとトリオでレコードをリリースしたり、凄まじい人気ぶりでした。

「誰かが私を愛してる」

 …TBS系木曜22時、21時からの「ザ・ベストテン」が終わった後の「木曜座」枠最後のドラマで、当時小6でフルには見ていませんが、「べストテン」が終わった延長上で序盤だけ見ていました。
 主演は多岐川裕美さんで、野口五郎さんのドラマ主演でも話題となり、「太陽にほえろ!」山さんの露口茂さんがホテル支配人役で掛け持ち出演していました。
 主題歌は野口五郎さんの「19:00の街」で、彼自身久々のヒット曲にもなりました。

「天まで上がれ!2」

 …石立鉄男さん主演のヒットドラマの2作目ですが、前作のようなホームドラマ的なものとは全然違った、警官が怪盗を捕まえる事がドラマの主軸となったものでした。同じようなキャストが全く違ったものをやっていました。あの坂上忍さんも少年役で出演していましたが、脚本でキスシーンとなっていた部分を自分で書き換えて、キスなしにしたという逸話を当時聞きました。
 「オサラバ坂に陽が昇る」に出ていた柴田恭兵さんも本作に出演し、怪盗役で出演し、石立さんとの前作とは違ったコンビネーションを見せていました。
 石立さんが人情味のある正義のヒーロー的な役柄をやるのは、この時期くらいまででした。

「婦警さんは魔女」

 …榊原郁恵さんが主演した婦人警官もので、「噂の刑事トミーとマツ」の終了後放送された大映テレビのドラマです。
 前作トミマツから松崎しげるさんが継続出演し、この時の彼のアフロヘアが話題になりました。

「壬生の恋歌」

 …NHKの連続ドラマで新選組を描いたものですが、新選組の活躍というより、新人隊士ひとりにスポットを当てて、その人間模様を描いたものでした。ちょうど「太陽にほえろ!」を降板したばかりの三田村邦彦さんがその新人隊士役として主演していました。

「水戸黄門」(第14部)

 …このシリーズから黄門役が2代目・西村晃さんになりました。初代・東野英治郎さんのイメージしかないままで見ると、随分変わった感じがしました。でも個人的にはこの黄門様が一番好きになりました。ちっょと品と茶目っ気があって。
 また、格さんが大和田伸也さんから伊吹吾郎さんに交代しました。個人的に、歴代格さんで最も似合うのは伊吹さんだったと思います。迫力とか腕っぷしの強さとかすごくイメージに合っていた気がしました。

  

---------------------------------以後は、前年から続いているドラマです。

「西部警察PARTⅡ・Ⅲ」

 …3月まで「PARTⅡ」が放送され、この終盤で井上昭文さん演じるおやっさんこと浜刑事が殉職しました。まさかおやじさんが殉職するとは思いませんでしたが、大人の事情が色々とあったようですね。代わって登場したおやっさんは、まさに「おやっさん」の俳優で小林昭二さん演じる南刑事でした。ウルトラマン、仮面ライダーなどの番組でおなじみの人気俳優で、それまでのおやっさん役はどちらかというと悪役俳優のイメージの色濃い方々でしたが、ここで立花藤兵衛か!と思ったものでした。

 PARTⅡの最終回は特にそれらしい話でもなく、3月終わりに全40話が終了して、4月からそのままPARTⅢに突入し、全く何も変わっていないそのままの続きものでした。単に改編でⅡとⅢに分けただけでしょうか?

 PARTⅢは翌年10月まで1年半続きますが、この年は序盤6話で三浦友和さん演じるオキこと沖田刑事の病状が悪化し、元々「命を限られた男」として1年前に加入しましたが、その命の期限が迫り、彼に色々な症状が現れ、事件を解決し雪山へ消えていくシーンで終わったのを見ていました。この時期(5月?)にあんな雪山ってどこなんだ?なんて話を中学の同級生としていたものでした。
 代わって登場したのが、柴俊夫さん演じるタイショーこと山県刑事、男くさくて適度にお調子者気質のあるタイショーはハト(舘ひろしさん)とは悉くソリが合わず、30代同士ながらしょっちゅう殴り合いのケンカをする始末で、この二人のコンビぶりも見もののひとつとなりました。

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 そしてもう一人、ジュンこと五代純刑事として石原良純さんが軍団入りを果たしました。以前から番組スポンサーである宝酒造の「純」という焼酎のCMに出演していましたが、遂に登場したか、という感じでした。
 北海道の川に鮭を戻そうという「カムバック・サーモン」という運動もこの番組のこの時期に知りました。
 また暮れには番組カレンダーを親が買っていました(笑)
 日曜の夜は、この番組を見てひと安心して、次の日からまた学校、そんな週を繰り返していました。

「太陽にほえろ!」

 …放送10年を越え、スタート時からのメンバーはボスの石原裕次郎さんと山さんの露口茂さんの2人のみで新年を迎え、第1回目のタイトルは「七曲署1983」というもので、最後にボスがアクションを見せ、1981年の奇跡の復活から初めてといっていいほど見せた裕次郎さんのアクションシーンでした。
 2月に三田村邦彦さん演じるジプシーこと原刑事が転勤となりましたが、受験の追い込みで見る事ができませんでした。翌週には長谷直美さんが演じる岩城令子が、それまでロッキー(木之元亮さん)の未亡人として交通課勤務を続けていましたが、縁あって七曲署配属となりマミー刑事として登場しました。

 5月は高知ロケで前後編にわたり「南国土佐・黒の推理」「南国土佐・黒の証明」が放送されました。
 7月にはブルースこと沢村刑事として又野誠治さんが加入、番組末期のアクション面はほぼ彼が一手に担う格好になります。
 松田優作さんに似た雰囲気で豪快なアクションを次々と繰り広げる又野さんの活躍は「ジーパンの再来」と言われるほどでした。
 彼の登場により、渡辺徹さん演じるラガー刑事が、登場から2年近くずっと一番下でしたが、ようやく先輩刑事となりました。
 また、世良公則さん演じるボギー刑事が1年フルに在籍していたのはこの年だけでした。

 この年、個人的にラジカセを与えられ、この番組を「録音」してました(笑)今でもそのテープは残っていますが、テレビ画面にマイクを押し付けるように近づけて録音するのは、他の音が入らないように緊張感をもってやったものでした(笑)


 「Gメン'82」

 Gメン'75のその後として、前年から放送されましたが、「西部警察」と大河ドラマとの裏番組でまともにぶち当たり、視聴率には勝てず、この年連続ドラマのGメンとしては終了し、1975年からの歴史に終止符を打ちました。その他の長寿刑事ドラマはまだ続いていきますが、このGメンの終了後、新作刑事ドラマはなかなか制作されず、ひとつの時代の終焉を迎えたといってよいと思います。時々見ていましたが、やはり西部警察を見たい欲が勝って、長続きしませんでした。

 

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2024年1月 8日 (月)

生活と世の中と思い出と(1983年②)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。69回目は1983年の第2回です。

当時の自分の生活から文化や当時の世相に触れる部分も含めて綴ります。

 

まず、1983年という年は自分が小学校を卒業し、中学校に入った年でした。

●ジャンボ宿題

 当時、私立中学に入る為に塾へ通っていました。この当時で小学生で塾通いする人間はあまりおらず、逆に自分は中学で周りのほとんどの同級生が塾へ行くのに対して、絶対に塾へは行きませんでした。この小学生の時の塾通いがしんどかったこともあり…。

 で、年末年始も休みなく受験勉強でした…。この小6の1年間は周りの同級生と違った生活をする事となり、もっと年相応の生活をしたかったな、と当時も今でも思うほどですが、とにかく冬休み期間中に凄まじい量の問題を解いて提出しなければならず、これを「ジャンボ宿題」と塾では読んでいました。その宿題を1982年の暮れから1983年の年明けまで、苦闘していました。傍には「はりま焼」というせんべいのお徳用を携えながら(笑)

●特訓、追込み

 前年10月から、毎週木曜日は6時頃~「木曜特訓」といって、集中講座を受けていました。小学校が終わってからランドセルを置いて、最寄りのバス停から20分かけて市の中心駅近くの塾まで行ってました。それまでは日曜だけだったので塾に専念できたのですが、これに平日が加わって、学校→塾となり、大変でした。その後更に土曜日も追加されて「土特」(土曜特訓)にも参加となり、勉強漬けでした。

そして入試の前週くらいには月~金の平日毎日追込み特訓がありました。さすがにこの時は、学校を1週間まるまる休みました。

毎日家まで誘ってくれる友達には申し訳ないと思いながら…

●私立中学入試

 講習や追込みと塾の事ばかり書いてきましたが、それもこの入試の為でした。

 3/1、2と2日間の入試、5教科にそれまでの全てをかけて挑みました。
 2日とも母親が付き添ってくれて、試験の間もずっと待っててくれました。
 2日目の全日程が終了した帰り道に、母がレコード店へ連れてってくれて、大好きな「太陽にほえろ!」のサントラを買ってくれました。

●解放

 入試が終わった事で、これまで1年余りの受験勉強の日々から解放されました。

 「自由の身」になりました!

 という訳で、それまで我慢していたものを全部開放し、中学入学前の特集号の形の学習雑誌を隅々読んで、先のサントラのカセットテープを毎日擦り切れるほど聞きまくって、テレビも見まくって…という具合でした。やっと普通の小学生に戻れた気がしました。

●坊主の準備

 入試前は私立中学に入るつもりではありましたが、落ちた時の備えも一応…という事で、2月初に初のスポーツ刈りにしました。

 (入試に落ちて)公立中学に入る場合、男子は坊主頭必須(そういう時代でした…)だったので、「青光りしないように」という事で、小6にもなると結構な割合で坊主頭もしくはスポーツ刈りなどの短髪にしていましたが、自分は2月初までまだ普通に髪を伸ばしていました。いきなり坊主は抵抗あったので、とりあえずスポーツ刈りに。これも結構勇気が要りました。

●不合格

 入試の結果が、試験の数日後割に早い段階で出ましたが、「不合格」でした。

 135人の定員に対して350人くらい受験してて、220番台でした、という結果が併記されていました。

 単に「落ちた」訳ですが、ショックとかでなく妙に淡々と受け止めていました。
 「解放された」事の方が嬉しかったのかもしれませんが、これで公立中への入学=坊主頭確定ともなりました。

●サイン帳交換

 小学校を卒業するにあたり「サイン帳」がクラスのあちこちから配られ、書き込みました。またこちらからも配り、みんなに書いてもらいました。

 今はどんなことをしてるのかな?と思ったりしますが、大差ないんじゃないかと勝手に思っています。プロフなんか書き慣れてないから恥ずかしかったですね。

●初の卒業式

 6年間通った小学校を出た訳で、思い入れもありますが、卒業式の練習をすごいした覚えもあります。
 「楽しかった」「修学旅行」みたいなそんな感じのやつですね。

●卒業旅行

 小学校を卒業後の3/30に町内の子供会でバス旅行があり、普段こういうの好きではなくあまり参加しなかったんですが、この時は楽しかったのを覚えています。

 

●中学入学

 3月の春休み中に遂に坊主頭になり、4月に初登校でした。
 小学校の通学路から更に倍の道のりを行かねばならず、初日から友達共々遅刻危機になるほどのドタバタで、入学式は父兄も参加だったので、母親が自転車で悠々行く中を初日から必死に走っていきました。

 そして中学の新しいクラスへ。小学校が同じ子と違う子(隣の小学校区の子)とがほぼ2:1くらいでしたが、新しい友達もできる事となり、初めて「制服」というものを着ての登校も新鮮でした。(小学校は服装自由でした)

 

●ラジカセ

 先にサントラのテープを聴いた事を書きましたが、親がラジカセをくれました。親のお下がりみたいな格好でしたが。

 これで「基礎英語」を聴きなさい、という訳です。
 で、毎月テキストを買って「基礎英語」を毎日聴いていましたが、他のラジオ番組も色々と聴くようになり、勉強よりもむしろ娯楽に使ってました(笑)
 けど、部屋にテレビなどあるはずもなく、ラジオすらなかったので、ラジオが部屋に入るだけで、すごく人生が豊かになったように思えました。

 時にはテレビ番組をカセットテープに「録音」して部屋で聴いたり。ビデオすらなかったので、自部屋でテレビが見れるのに近い感覚を当時なりに味わえたというものです。

●中1時代13

 今はもうこういう文化はないかもしれませんが、当時旺文社が毎月発刊していた学習雑誌で「中一時代」や「中二時代」…なるものがあり、このタイトルに年齢を表す数字が入り、「中一時代13」とか「中二時代14」というタイトルになりました。その中一時代を定期購入する事となり、特典で付いた万年筆をもらいましたが、この時生まれて初めて万年筆を手にしました。漫画家が使うものと思っていました(笑)

 今のようなインターネット、SNS文化がないので、1ヶ月に一度この雑誌を買って得られる情報がその時々の「最新情報」であり、芸能情報やドラマの事、アニメも含め、いろんな情報を得て、自分の世界が広がっていく事を実感しました。特に前年まで受験勉強下にあったので、余計に変わりました。

●学年1位からの凋落

 小6の時の皆とは一線を画した生活ぶりは、受験に落ちても決してダテではなく、中学に入って最初の学力テストでなんと学年1位をとってしまいました。自分ではまさか、という感じだったし、その成績は人に見せるつもりは全然ありませんでしたが、担任の先生が皆の前で公開してしまい、以後は違うクラスの同級生からも「1番」と言われるようになり、自慢どころか逆に恥ずかしかったです。正直皆から一番と言われるのが苦痛で、それから解放されたくてわざと勉強しなかったのもあるくらいでした。
 放っておくと、見事に成績が落ちてくれて、当然1番ともいわれなくなり、自分としてはやれやれという感じでホッとしました。
自分のペースで過ごしたかったんだな、と今振り返っても思います。勉強で1番になりたかった訳ではなかったので。

●明るく活発に

 それまで結構どちらかというと「暗い」と言われていたのが、勉強から解放され、かなり活発になりました。自分でも驚くくらいに。
 これまでの人生で、単純に一番楽しかった年はいつ?と聞かれたら、迷いなくこの1983年を挙げます。

 とにかくめちゃ活発に振る舞い、言いたいことを言って、また人がめちゃくちゃ寄ってきた時でもあり、自分的に前年と180度人生が変わったように思えました。しかし、その事は後に人が引く事にもなり、ちょっと調子に乗り過ぎていたな、とも感じます。あまりにも素直に生きすぎて、周囲への気配りが無縁な時期でもありました。

●大嫌いな組体

 中学に入って一番嫌だったこと、と言っても過言ではなかったのが、運動会(「体育大会」といっていました)の組体(組体操)でした。

 いろいろやりましたが、ピラミッドまでは良かったものの、3段タワーが嫌すぎました。チビだったのでどうしても上になり、また一番小さい訳でもなく、3段の2段目ばかりやらされて、みんなとなかなか合わなかったり震えたりしてしまい、迷惑をかけたものでした。
 なんであんなのやるんだろ、としか思えなかったですね最後まで。昭和の中学校は軍隊の延長線上にあるものが多かったように思えました。「宿泊訓練」と称した泊まり旅行がありましたが、これも全体行進が揃うまで終わらないとか、今はもうこんな教育やってないのでしょうかね??

●伯母の死

 10月に今は亡き大阪のエキスポランドに行って、また生まれて初めて大阪城を見たりしていましたが、その翌日に母がおらず、父だけになっていて言われたのが「お前にはきょう学校を休んでもらう」というセリフで、何かと思ったら伯母(母の姉)がなくなったとの事、それまで母方の祖母は小4の時に亡くなりましたが、伯父伯母レベルでは初めてで、母より20年上でしたがそれでも56歳、早世でした。前年夏にこの伯母の家へ何泊も止まらせて頂いて、大変お世話になったばかりでした。
 今みたいに会館へ行ってのものではなく、自宅で通夜があり告別式は近所のお寺でという感じでしたし、家族葬なんてないから結構な人の行き来がありました。

●ポケコン

 当時はPCなどまだマニアの持ち物でしたが、ポケコンでいいからとにかくパソコンというものが欲しくて、親にねだりまくってようやくの想いで買ってもらい、とにかくこれを使い倒していました。本に載っているプログラムを組んでゲームをしていただけで、とれも一画面1行のなかでドットで表示されるだけのものでしたが、それでもコンピュータを使って遊べることが幸せでした。
 カシオの「PB-100」という¥14,800のポケコン、もう動作はしていませんが、今もまだ本体は持っています。

 

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2023年12月29日 (金)

生活と世の中と思い出と(1983年①)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。68回目は1983年の第1回です。

今から40年前、当時小6から中1になる年でしたが、この年のニュースにまつわる思い出を綴りたいと思います。

 

●ニュース

中川一郎氏死去

 …中曾根康弘氏らと共に総裁選を争った議員で、前年末結局中曾根氏が首相となりましたが、その直後の自殺(当時はそう報じられていましたが、後年そのあたりがぼやかされています…)で、選挙で敗れて自殺したのかな、、と小学生ながら思っていました。息子・正一氏も酩酊状態で会見し、程なく早世しており、親子にわたり酒がらみの謎の死を遂げていて、未だにすっきりしない部分があります。

・萩原健一氏逮捕

 …俳優の萩原健一氏が大麻取締法違反で逮捕されました。「太陽にほえろ!」の大ファンなだけにショックでした。映画界に進出し、テレビの人ではなくなってしまった感のあった「ショーケン」は昔とは別人に見えた覚えがあります。その後何度も警察沙汰になり、マスコミの恰好の餌食になり、その度ごとに話題になっていました。

清水健太郎氏逮捕

 …この時期は有名人の麻薬がらみの逮捕が相次ぎ、萩原氏の逮捕から1ヶ月も経たないうちの逮捕劇でした。「Gメン'82」の刑事役出演が終わった直後の事で、これまたショックでした。その後復帰しましたが、復帰、逮捕を繰り返してTVで見なくなってしまいました。

・統一地方選挙

 …各自治体の首長選挙が各地で実施され、うちの地元も県会議員・市会議員等の選挙がありました。
 学校からの帰り道のあちこちに選挙前の決起集会とかのポスターが貼られ、選挙というものに興味関心を持った時期でした。うちの伯父も市会議員選挙に出ていて、プレハブ建ての選挙事務所ほお邪魔したり、その伯父の自宅で当選の瞬間を本人と一緒に親戚一同見ていました。4位だったかで上位当選し、「今の心境は?」とエアでマイク向けたのを覚えています。

サラリーマン新党結成

 …当時あった「新自由クラブ」「社民連」などのミニ政党に続くように結成されました。「サラ新」と称され、2010(平成22)年まで存在していたといいますが、1992(平成4)年以降は具体的な政治活動をしていなかったといいます。こういうミニ政党が選挙で議席を伸ばすか?とかその度ごとに興味深く見ていたものでした。

・エースコック「わかめラーメン」発売

 …石立鉄男氏による「おまえはどこのワカメじゃ?」のフレーズがインパクトの大きかったCMが有名でしたが、この年の発売でした。

・福本豊選手が盗塁世界記録達成

 …阪急・福本豊選手が通算939盗塁の世界新記録(当時)を樹立し、「世界の福本」となりました。
  国民栄誉賞受賞の打診もありましたが、本人が固辞した時の「そんなんもろたら、立ちションでけへんようなる」の言葉も有名でした。

・戸塚ヨットスクール校長逮捕

 …スパルタ教育が過ぎて、訓練生の死亡、行方不明等が相次ぎ社会問題となった「戸塚ヨットスクール事件」はワイドショーに連日取り沙汰されていました。その校長が逮捕され報道が過熱していました。

・沖雅也氏自殺

 …当時母親に、当日の夕刊を差し出されて「中見てみ?」と言われるがままに開いたら、沖雅也さんの自殺記事が載っていて衝撃的すぎました。「太陽にほえろ!」のスコッチ刑事としてあまりに親しみある存在だったので。ホテル47Fからの投身自殺という事で、その後養父が頻繁にTVに出て色々と取材され、「おやじ涅槃で待つ」のフレーズが有名になりました。人気俳優の31歳での自殺…当時仲でしたがかなり衝撃を引きずっていました。

・KKコンビ大活躍

 …PL学園の桑田真澄・清原和博の両1年生選手が大活躍しPLが夏の甲子園で優勝しました。
 それまでは「やまびこ打線」の池田高校が優勝候補最有力で、畠山準、水野雄仁といった投手が甲子園を沸かせてきましたが、KKコンビは甲子園の常連となりプロでも大活躍して、本物であることを証明する事となります。

・社会党委員長 交代

 …社会党の委員長が飛鳥田委員長から、石橋雅嗣氏へと交代となりました。
 自分の記憶にある社会党の委員長は飛鳥田氏からで、初めて交代のニュースを見ましたが、この石橋氏の顔が印象的でした。

・「アップダウンクイズ」司会交代

 …長寿番組として知られた「アップダウンクイズ」。この年で放送20年を迎えていましたが、長年司会を続けてきたMBS(毎日放送)アナウンサーの小池清氏がこの年にて番組を降板し、後任はナント俳優の西郷輝彦氏が登場したのでびっくりしました。やはり小池氏の印象が強いので、違和感がありましたが、それから2年経って番組自体も終了となりました。

・ロッキード事件・有罪判決

 …田中角栄元首相が罪に問われた事件、ぐらいの認識しかありませんでしたが、当時政治家はいい人で犯罪をするなんて考えられない、とおもっていたぐらいには子供でした(笑) 執行猶予とか全然意味分かってなかったですが、とにかく元首相の有罪判決がすごいニュースになっていたのを覚えています。
 それよりもっと驚きは、その後も選挙に出てトップ当選を果たしていた事です。今では絶対考えられない事ですが、当時は逮捕歴があろうが人の心を掴む存在は「支持される」みたいな感じでしたね。

・花王「バブ」発売

 …「花王・愛の劇場」の昼帯ドラマのCMなどでよく見ましたが、お風呂に投下してシュワーッと泡が出ていく、見てるだけでポカポカしてきそうで画期的でした。♪バハバ、バーブ…のフレーズが自分の脳内でよく再生されます(笑)

・巨人・王監督就任

 …巨人の王貞治助監督が3年間の助監督生活を終え、藤田元司監督の退任に伴い巨人の監督に就任しました。

 現役を引退して、コーチを経ずに「助監督」というポストは王氏以外に見た事がなく画期的で、投手交代の時はよく背番号1のままでマウンドへ向かって行ったのを覚えていますが、「ついに監督になったか」という感じでした。

・アキノ氏暗殺

 …フィリピンのベニグノ・アキノ上院議員がマニラの空港で飛行機のタラップを降りる時に、銃により暗殺されるシーンがTVで流れて衝撃的でした。事件の背景は全然理解できていませんでしたが、単純にショックでした。その後妻のアキノ氏が大統領に就任しています。

 

2023年12月13日 (水)

生活と思い出と世の中と(1984年④)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。67回目は1984年の第4回です。

この年に見た再放送ドラマやアニメ、バラエティー、そして聴いたラジオについて綴ります。

 

●ドラマ(再放送)

「太陽にほえろ!」

 …当時まだ本放送はやっていましたが、何せ長い歴史を持つ番組につき、以前の時期の再放送は昔からやっていました。
 この時、4月から「ジーパン編」として2年目の1年間について再放送がされましたが、夕方4時からの再放送は実質この時で終わりました。
 いつも学校から帰ってきて、4時になったら再放送を見ていたのですが、これ以降は朝10:25くらいからの再放送になってしまい、学校で見れるはずもなく…という事になってしまいました。

 伝説の「なんじゃこりゃあ」でおなじみのジーパン殉職編をこの時初めてちゃんと見ました。
 手に汗握る銃撃戦、10何人もの相手を一人で制圧するジーパン…、ここでやられてしまうと思っていても、肩を撃ち抜かれても制してきて、「どこが殉職編なんだ?」と思っていたら、まさかの必死に守った相手の持った拳銃が暴発してのあっけないものでした。
 昔見た回想殉職シーンの記憶では、なぶり殺しみたいに打たれたのかと勝手に思っていましたが、全然違ってました(笑)
 ジーパンは当初、拳銃を持たずに犯人と闘っていたというのも、この時見るまで全然知りませんでした。小学校の訳の分からん子供時代に見るのと、この中二になる時に見るのとでは理解度も全然違う訳ですね。

「俺たちは天使だ!」

 …沖雅也さん主演の探偵アクションドラマです。
 前年に沖さんが自殺した事がまだ衝撃的で、ある種のトラウマとして残っていた頃に再放送がされて、この番組を初めて見ました。
 元気だった沖さんが躍動するのが、悲しげでもありました。それぐらい「ロス」が大きかったし、31歳での自殺は衝撃すぎました。

「探偵同盟」

 …宮内淳さんが「あさひが丘の大統領」以降に出たドラマとして記憶の片隅に残っていましたが、それがいつのなんというドラマか完全に忘れ去っていたところに再放送がされて、断片記憶がつながりました。宮内さんが実質的な主役ではありますが、クレジット上の主役は加山雄三さんで、おいしいとこは最終的に加山さんが持っていきます。
 「探偵物語」に刑事役で出ていた成田三樹夫さんと山西道広さんが、局が違うのに同じ役でスピンオフ出演してるのが、後から考えたらすごいなと感じましたが、当時は何もわかってませんでした。

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「猿飛佐助」

 …地元ローカル局の再放送で見た太川陽介さん主演の時代劇で、あの「西遊記Ⅱ」の後番組でした。

 猿飛佐助と仲間たちの活躍劇で、真田幸村を川崎麻世さんが演じていました。
 この番組の何がすごいって、最終回の壮絶さです。
 何も知らずに見てるうちにラストであっという間の惨殺劇で、見たら絶対トラウマになるやつです。
 目つぶしで失明した佐助に、丘の上から鉄砲で蜂の巣にしたかと思えばそれでは飽き足らず、大量の弓矢でハリネズミ状に刺しまくり、さらにまだ銃弾で蜂の巣でとどめを刺すという、惨殺の極みでした。それで最後のナレーションで「佐助が生きているのを見かけたという話も」とあり、あまりにも「それはないやろ」と思った記憶があります。

「俺たちの勲章」

 …松田優作&中村雅俊という主演級の2人が刑事役でコンビを組んでて、子供心にも豪華すぎる共演にすごいと感じていました。
 この時の優作さんがカッコよすぎて、雅俊さんは逆にバンカラ風とは真逆の真面目で朴訥とした青年キャラで対照的でした。
 夏休み期間中に一旦再放送が途切れ、「もうやらないのかな」と思っていたところに秋口に再開されて、最終回を見る事ができました。

「探偵物語」

 …松田優作さんの民放連続ドラマ最後の作品でした。普段はめちゃコミカルな優作さんが見れて楽しかったですが、最終回はガラッと作風が変わって、仲間や友達が次々と殺され、その復讐に燃えて殺しまくるのがすごく怖かったです。そして最後に自身が、レジでいちゃもんをつけた根暗な男に刺されるという…

 その後傘をさして街を歩くシーンがあって、これを「アレは結局死なずに助かったんや」という同級生が何人かいて、「死んでるやろあれ」と個人的に思いましたが、こういう生死不明なラストのものはやはり視聴者に色んな考え方を与えるのだな、と感じたものでした。

 

●アニメ

まだ中二(もう中二?)もあってか、アニメもいくつかは見ていました。

「夢戦士ウイングマン」

 …ヒーローに憧れた中学生がある日突然そのヒーローになって戦うという作品で、のちに「電影少女」でヒットする桂正和氏の漫画です。
 ヒロイン美紅ちゃんの「○○するの、よくないと思う」が決め台詞的なものでした。
 OPを歌っていたのが、その前に「Gメン'75」のEDテーマである「遥かなる旅路」を歌っていたポプラさんだと知ったのは、この放送から30年以上も後の事でした。

「オヨネコぶーにゃん」

 …当時「キン肉マン」で一世を風靡していた神谷明さんが、図々しすぎる飼い猫の声をアテたホームギャグアニメという感じのものでした。
 とにかく、ぶーにゃんの巻き起こす騒動が中心でしたが、神谷明さんがおもいっきりギャグ路線の声にシフトした感じで、ゲッターロボのリョウとは全く対照的で、声優の奥深さを感じたものでした。

「Gu-Gu ガンモ」

 …人間の言葉をしゃべる珍妙なニワトリのようなキャラクターが主人公で、その居候宅で巻き起こすドタバタ劇で、アニメでは前番組「さすがの猿飛」と同じ細野不二彦さんの原作でした。
 ♪えらいやっちゃどんなやっちゃ チャチャチャGu-Gu ガンモ! の歌い出しが印象的でしたが、楽曲や歌い出しに使われるアニメーションがこの時代らしいというか、昭和50年代末期感をすごく感じます。オープンカーやグラサンキャラや…右肩上がりの時代を感じさせるものでした。

「ルパン三世PARTⅢ」

 …70年代末期に大人気を博しその後も映画としても続いていた作品の待望の第三シリーズが放送され、最初のうちは見るようにしていましたが、いつの間にか見なくなっていました。自分のデフォルトが前作の赤いジャケットのルパンであり、初作の緑ジャケットに戻って、妙に端正な顔立ちのルパンほかキャラにあまり感情移入できなかったようで。1年半かけて50話が放送されました。

「名探偵ホームズ」

 …全員が擬人化した犬という形で展開された探偵ホームズのアニメで、ホームズの出で立ちがカッコよかったのと広川太一郎さんの知的感溢れる雰囲気の声もまたカッコ良かったです。相方のワトソンは富田耕生さんがアテていて、対照的なキャラもよかったです。

 

●ラジオ

「世良公則のちょっとイカした10 o'clock」

 …前年からの引続きですが、1月~12月通年聴いていたのはこの年だけでした。
 長渕剛さんがゲストに来た回もあり、この当時は特にこの2人の交流は色々とあったようです。
 この年世良さんは「太陽にほえろ!」を殉職の形で降板し、その話が出ないか毎週興味深く聴いていました。
 その後は「25歳たち危うい予感」の出演時の話や、この時に主題歌として歌っていた「導火線」が良く流れていました。

「理恵と歌おう」

 …前年から聴いていた中原理恵さんのラジオで、86年まで放送されていました。
 

 タイトル不明

 …三田村邦彦さんのラジオ番組が当時ABCラジオで土曜の夕方にやっていましたが、調べてもタイトルが分かりませんでした。
 当時出ていた「必殺仕事人」の話もされていて、中二で22時からのドラマが見れず、ここで必殺の片りんを知った気がしました。

 

2023年12月 3日 (日)

生活と思い出と世の中と(1984年③)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。66回目は1984年の第3回です。

この年に見たドラマについて綴ります。

 

●ドラマ(本放送)

・「青い瞳の聖ライフ」

 フローレンスというハーフのタレントがいきなり主演で出てきた高校生のラブコメディーものでした。その前に彼女はモデルで「フローリー芳賀」として活動していたのを見かけた事がありましたが、それと同一人物と分かるのに暫くかかりました。
 ベスという名の女子高生役で、相手役が宮川一朗太さんだったのを覚えています。後に内村光良さんと顔が似てると話題になりましたが、この頃の一朗太さんは「ぼくたちの疾走」などでも前面に出て活躍していました。

・「暴れ久庵」

 風間杜夫さん主演の時代劇で、これが時代劇初主演でした。
 正義感に燃える漢方医の役で、この出演が後の銭形平次に繋がったのかな、という気がしました。

・「オレゴンから愛」

 古谷一行さん主演のアメリカもので、全編オレゴン州でのロケだったといいます。「北の国から」のアメリカ版ともいわれていたようで、その後も続編が年1回単発で何度か放送されるほど、後年も人気が衰えなかった作品です。
 寺泉憲(当時:寺泉哲章)さんの日系人ぷりがすごく様になってて印象的でした。

・「風の中のあいつ」

 渡辺徹さんの連続ドラマ初主演作として日本テレビ系土曜21時から放送されていました。
 当時、「太陽にほえろ!」のラガー刑事役でレギュラー出演中で、掛け持ちの状態で唯一やっていたドラマでした。
 逆に「太陽-」での出番が激減し、翌年番組を卒業することになります。
 後に結婚する事となる榊原郁恵さんが相手役で共演し、それまで歌番組で共演歴がありましたが、明確にきっかけになったのはこの作品だったと思います。
 明石家さんまさんも出演していて、以後徹さんの主演ドラマには必ず彼が共演していました。
 経営の事は二の次にする正義感に燃える医師役でしたが、これとは対照的なプレイボーイ的な役どころで、後に「太陽-」で徹さんの後任となる刑事を演じた金田賢一さんも共演していました。

・「家族ゲームⅡ」

 前年、長渕剛さんが主演して話題になった「家族ゲーム」の続編で、前回は6回のみでしたがこのシリーズは1クール放送され、二谷友里恵さんが出演していました。主題歌「孤独なハート」はそれまで長渕さんになかったタイプのポップな曲で、当時「えっ!意外」と感じたものでした。世良公則さんのラジオに長渕さんがゲスト出演されて、この曲が流れていたのを覚えています。
長渕さんがTVに出はじめた頃に世良さんとよく混同していたので、この共演はなんか嬉しかったものでした。

・「昨日、悲別で」

 ザ・倉本聰作品という感じの北海道を舞台にした作品でした。
 天宮良さんが主演デビューを果たしたドラマで、梨本謙次郎さんの名前を知ったのもこの作品でした。それまでナシモトというば梨元勝さんしか知らなかったので(笑)

 後年、この悲別の舞台となった地に実際に行きましたが(写真)、そこは日本一人口の少ない歌志内市という所でした。

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・「気分は名探偵」

 「事件記者チャボ!」の終了後半年を経て、水谷豊さんが日テレ土曜21時枠に戻ってきた作品で、今回は探偵役です。
 パートナーが岡江久美子さん、上司が朝丘雪路さんで、手下的な若手に船越英一郎さんが出ていました。佐野量子さんのデビュー作でもありました。

・「京都㊙指令 ザ新選組」

 ㊙なんていうのがいかにも昭和ですが、古谷一行さん主演の現代版新選組が悪を裁くドラマで、新選組+ハングマンという感じの作品でした。
 共演者がとにかくユニークで、ガッツ石松さんに横山ノックさんという、ガッツさんは当時まだドラマ出演が豊富でない頃でした。

 それぞれが新選組の隊員に似た役名で、古谷さんが土方、ガッツさんは永倉、ノックさんは山田勇(=近藤勇からとったものであり、また自身の本名)といった具合です。
 また若手メンバー役で京本政樹さんが出演し、沖田総司をもじった沖田信介の役名で、革ジャンにバイクを乗り回す颯爽とした役どころでした。おそらくこれが翌年の「必殺仕事人」起用に繋がったのでしょう。本放送はあまり見れませんでしたが、京本さんのカッコいいアクションシーンはよく番宣で見たものでした。

 後年、再放送を見る機会を得ましたが、古谷一行さんのアクションものってあんまりないな、とその時感じました。

・「激愛、三月までの…」

 本放送でほぼ見た事がありませんでしたが、当時買っていた中学生の学習雑誌にドラマ紹介コーナーとして載っていました。
 草刈正雄さんと三田寛子さんの年の差恋愛ものでしたが、草刈さんの役が余命3ヶ月の役どころで…という作品でした。
 三田寛子さんはこの時のイメージや、この前後に中日の田尾安志選手とCM共演していたり、結構おじさんキラー的な印象がありました。
 といっても草刈さん当時31歳、田尾さんも28歳くらいだったと思いますが、二人ともカッコいいけど10代の子と比べると風格を感じたものでした。

・「ザ・ハングマン4」

 「新ハングマン」終了後、名高達男さんが同じ役名(結城五郎)で主演した作品で、コードネームは「E.T.」から「サファリ」に変わっていたので当時は別キャラだと思っていました。
 彼以外のメンバーは一新されつつも、植木等さんが「ザ・ハングマンⅡ」以来2年ぶりに「オショウ」として復帰、当時名高さんも共演していましたが、別キャラ(加納良次:コードネーム「デジコン」)だった為、知り合いではない設定でした。

 個人的にハングマンの中でリアルタイムで最も記憶に薄い作品でしたが、渡辺祐子さんという新人さんが出ていたのは覚えてます。佐藤浩市さんもこの作品から2作連続でハングマンに出ていました。

・「私鉄沿線97分署」

 「西部警察」シリーズが5年間にわたる「激闘」の末、終幕後の番組で、同じ刑事ドラマでも一変して人情刑事ドラマになりました。
 プレハブ造りの仮庁舎が舞台で、時任三郎さんが実質主演でしたが、クレジット的にはそれまでにつづき検視官役の渡哲也さんが主演となっていました。時任さんは翌年春に半年で降板し、その後は新沼謙治さん、古尾谷雅人さんと続いていきますが、時任さん降板後は実質的に中堅刑事・奈良を演じた鹿賀丈史さんが主演という感じで次回予告も基本、鹿賀さんが担当していました。

 渡さんは事件を追う刑事たちのアドバイザー的な役どころで同じ庁舎に勤務する検視官役でした。後にOPの冒頭にクレジットされますが、当初はラストのトメでクレジットされ、また「西部警察」終了直後もあって、角刈りのままワイシャツの色を水色から茶色に変えた感じでした。
 当初はOPもEDも松谷千春さんの曲で、これらがとても印象的でした。
 また当社は婦警役で早見優さんも出演していました。1クールほどで交代したと思いますが。

 ほとんど発砲シーンのない人情刑事ドラマでしたが、初回だけ庁舎内の発砲で、時任さん演じる片山刑事が負傷したシーンがありました。

・「金曜日の妻たちへⅡ 男たちよ・元気かい?」

 いわゆる「金妻」の続編で、前作とは打って変わって女性(高橋惠子さん)が主演で、前回に続いて出演したのは竜雷太さんだけで、それも別の役であり、前作とは全くの別物でした。
 翌年の「Ⅲ」が初作の雰囲気に近づいた感じでもあり、この作品だけ異色感がありました。

 当時の印象としては小西博之さんが高橋惠子さんを求めるシーンだけ記憶にあって、小西さんといえばこの前の時間帯で「欽ちゃんの週刊欽曜日」というバラエティーに出ていて、そのギャップがすごかったのと、前項「私鉄沿線97分署」にも刑事役で出ていて、かなりの売れっ子だった事を当時でも感じていました。

 板東英二さんのドラマ初出演作でもあり、その後いろいろなドラマに出演し、後に自身が塾長として司会した「わいわいスポーツ塾」では竜さんが塾頭と指名され共演していますが、ここでの縁だったのでしょうか。

・「スクール☆ウォーズ」

 「太陽にほえろ!」のスニーカー刑事以降、やや失速気味にあった山下真司さんに熱血教師役というオファーが届いたといわれ、実在する高校・監督をもとに作った大映ドラマの話題作でした。
 OPの過激な校内暴力シーンにモデルの高校は放送差止めを求めたほどで、また実在する監督に失望されないよう山下さんはかなり気合を入れて演技をしたといいます。
 試合で大敗を喫した後に、生徒たちに愛のムチを振るうシーンは今ではコンプライアンス違反として地上波では放送できないそうですが、先生に殴られるのが当時はそんな異常事態でもなく、自分も殴られたことがあったので、すごく隔世の感がありました。悪い事をしたら殴られても仕方ない、と思っていたので。
 このドラマもリアルではあまり見れませんでしたが、イソップと松村雄基さん演じる「川浜一のワル」と称された大木大助との友情は当時からすごく感動していました。生まれつき体が弱くスポーツ音痴のイソップとワル街道まっしぐらの大木、大木はケンカに明け暮れて誰も寄せ付けない男でしたが、イソップにだけは固く閉ざした心を開き、またイソップにとっても大木だけは「自分を認めてくれる友達」でした。こんなにも対照的すぎる2人が友達になる?でしたが、二人がお互いにだけ本音をさらけ出して友情を示すシーンが逆に感涙ものでした。今見ても大泣きします。
そのイソップが事もあろうに死んでしまう?と思ったものでした。

 ベテランの重厚の演技にも感動でした。校長役の下川辰平さんは「太陽にほえろ!」で山下さんと共演していましたが、ここでは良き理解者として支え、また梅宮辰夫さんが元暴走族でラグビー部員の義兄役として気のいいラーメン屋のマスターをやっていました。この梅宮さん演じるオヤジさんの死も感涙ものでした。皆から慕われた熱い男の不慮の死…妻役の和田アキ子さんもいい味を出していました。

・「中卒・東大一直線 もう高校はいらない」

 中学生だったこの当時、衝撃的なタイトルのドラマでした。
 坂上忍さんが受験生役で主演し、クレジット上の主演は彼の父親役の菅原文太さんでした。菅原文太さんのこういう父親役というのも珍しいと感じました。

・「転校少女Y」

 大映ドラマで「不良少女とよばれて」の後番組として1クールのみ放送されました。
 高部知子さん主演のバレーボールもので、当時謹慎明けの復帰作となりました。
 元不良で更生した主人公が過酷ないじめや複雑な人間関係に悩まされながらバレーに打込む姿が描かれていました。
 バレー部のコーチ役に当時まだ無名だった渡辺謙さん、その弟で失明寸前の役どころを演じたのが尾美としのりさんでした。
 主人公の実母で訳あって母と名乗れず叔母の役が加賀まりこさんで、健気に主人公を支える役どころでした。
 その加賀さんと恋仲にあった男の役が竜崎勝さん(高島彩アナウンサーのお父さん)でした。これが病に苦しむ男の役で毎回のように苦しんでいて、劇中で最終回に死去し葬儀が行われますが、なんとその当時未明に演じる竜崎さん自身が44歳で亡くなってしまいました。
 松本伊代さんの歌う「ビリーヴ」という楽曲がEDテーマでこれも印象的でした。

・「25歳たち・危うい予感」

 主演の桜田淳子さんを筆頭に25歳前後の女優陣が集まり、25歳までに結婚しようと誓い合う同級生を演じていました。

 あまり見ていませんでしたが、当時世良公則さんのラジオで盛んに宣伝されていた主題歌「導火線」が良く流れていました。
 この曲は世良さんソロのシングルでは最もヒットしていて、世良さん自身も準主演的な役どころで出演し、「太陽にほえろ!」降板後初の本格的レギュラー出演を果たしましたが、その「太陽ー」の終わった後の時間帯に放送されていました。

・「ビートたけしの学問ノススメ」

 タイトルがちょっとあれですがれっきとした連続ドラマです。
 夏目宝石という主人公の教師をたけしさんが演じていましたが、学校を舞台にしたギャグドラマというところでしょうか。
 ほかにも芥川先生として、前年まで阪神の投手だった小林繫さんが出ていたり、与謝野先生には沢田亜矢子さんが出ていました。
 生徒役はたけし軍団がやっていて、松尾伴内さんが御手洗くんという生徒だったと思います。
 酒を飲んではたけしさんが両手をそれぞれ上向きと下向きにして「アウーーーー」と叫んでいた記憶があります。

・「必殺仕切人」

 見ていませんでしたが、新聞の新番組記事を見ていました。今も取ってあるので貼っておきます。

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 「必殺仕舞人」シリーズで活躍した京マチ子さんが役柄を変えて再登場、他にもやはり同じ仕舞人で相棒的な役だった高橋悦史さんや西崎みどりさん、「必殺からくり人」シリーズで活躍した芦屋雁之助さん、必殺初参加の小野寺昭さん、そして…「必殺仕事人」シリーズで大人気を博した立役者・中条きよしさんが仕事人で演じた三味線屋の勇次役そのもので出演、「仕事人から一本立ちした」のが大きな目玉でした。

 当時、藤田まことさんの仕事人シリーズとそれ以外のいわゆる「非・主水」作品とが交互に放送されていた必殺シリーズでしたが、それまでの非・主水シリーズはすべて1クールのみで、この仕切人は豪華役者陣を揃えて、これ以上の話数を放送していました。
 当初は仕切人も中条きよしさんの主演作としてシリーズ化する構想もあったようですが、豪華すぎる役者陣が揃う回が少なく、揃ったら揃ったで人数が多すぎてかつ平均年齢が高く殺しのシーンが冗長になったりなどしたのか視聴率的に苦戦したようでした。
 後年再放送で見た印象ですが、中条さんの勇次が仕事人の時よりマイルドでよく喋るキャラクターになっており、こっちが中条さんの素に近いように思いますが、小野寺さん演じる新吉との軽妙なやりとりが楽しかった印象もありました。

・「不良少女とよばれて」

 「スチュワーデス物語」の後番組として、不良から更生した原笙子さんの原作をもとに大映仕立てにした作品です。
 主人公の不良少女を前年「高校聖夫婦」でかわいらしい魅力を振りまいていた、いとうまい子(当時:伊藤麻衣子)さんが演じるという事で、前作とのギャップが大変話題になりました。これは本人が希望して演じたそうですが、大映ドラマはこの頃からツッパリ、不良が露骨化してきて、まい子さん演じる笙子のライバル的な役に伊藤かずえさん、笙子に惚れたを連発するキザすぎる不良に松村雄基さんが登場し、松村さん=不良のイメージがここからしばらく付きまとっていた感がありました。伊藤かずえさんや松村雄基さんが台頭してきた作品でもありました。

 そしてこの作品の主演は実は国広富之さん演じる「哲也」で、笙の奏者役なのですが、まい子さんの笙子に熱烈に惚れられ、岡田奈々さん演じる婚約者もいて…という状態でした。
 
 ・「わたしの姑ばなれ」

 この年に放送されていた昼帯ドラマで唯一見た作品でした。ちょうど学校が夏休みでもあったので。
 佳那晃子さんがキャリアウーマンとして働く嫁で主人公、その夫が中島久之さん、そして主人公を激しくいびる姑が馬渕晴子さんが演じていました。馬渕さんは当時おそらく総白髪のカツラを被っての老け役だったと思いますが、かつての大映ドラマ「赤い激流」でみせた悪役感以上にここでは嫁を目の敵にする姑を演じきっていました。

 

ここからは前年以前から放送されている作品についてです。

・「特捜最前線」

 ほとんど見ていませんでしたが、放送7年目を迎え視聴率が最もよかった時期だったそうです。1月の放送で番組最高の27.4%を記録、当時は約4年間ほとんど刑事の人事異動のなかった「超安定期」でした。主運:二谷英明さんの妻である白川由美さんがゲスト出演した回もあり、これは中学生の学習雑誌にも紹介されていました。法医学の先生役だったような…。 また「コンピューターよ、演歌を歌え」というすごいタイトルの回もあったと…。

・「西部警察PARTⅢ」

 前年4月からスタートし、1年を越えても放送されていました。
 春には「全国縦断ロケ」のファイナルとして関西ロケがあり、このイベントが大阪城辺りである聞き、すごく参加したかったです。中学生だったしとてもできませんでしたが…。イベントはすごく盛り上がって、舘ひろしさんが歌手の本領を発揮し、ロックナンバーで魅了していたのもTVで見ましたが、生で見た方たちが羨ましくて、大門軍団を一度生で見たかったものでした。

 最後の半年はロケなしで東京での回が続きましたが、とにかくこの番組の「全国縦断ロケ」はPARTⅡの頃から約2年にわたり各地で行われた大イベントであり、社会現象にすらなったほどでした。今のドラマではまず考えられない展開でしたね。ロケをイベント化し、そこでまた派手なアクションに大爆発、これが全部生で行われた訳ですから。

 そして10月の最終回、10/21の日曜日は通常放送としての最終回で、翌日月曜日である10/22が3時間スペシャルでの本当の最終回で、島での壮大なロケと、豪華すぎるゲスト陣が登場し、武田鉄矢さん、山村聰さん、宝田明さん、倉田保昭さん…そしてテロリスト役として原田芳雄さんが扮し、渡哲也さんの「大門」と最終決戦で相まみえます。ここで相討ちのような形となり、テロリストは絶命、大門は腹を撃たれながらも命からがら爆発から逃れ仲間たちのもとによたよたと駆け寄るその時…、一発の銃声が大門の身体を貫通…、中村晃子さん演じるテロリストの仲間が護身用に持っていた拳銃が大門にとどめを刺してしまいました…。

 大門の殉職…というショッキングな最期は事前に情報として入ってはいましたが、これは中学のクラスでもかなり話題になりました。

 ラストの写真集は親が買っていたものを見ましたが、総集編的な内容でそれこそ永久保存版です(今も手元にもっています)

・「銭形平次」

 前の記事でも触れましたが、この4/4に888回をもって最終回となり、18年の放送に幕を下ろしました。
 1人の俳優(大川橋蔵さん)が連続主演したドラマとしてギネス認定されているといいます。

・「太陽にほえろ!」

 放送12年に到達し、4月頃に600話が放送されました。
 春先に世良公則さん演じるボギー刑事が殉職するという噂が飛びかい、金曜日が来るたびに「ボギーはいつ死ぬのか?」と周辺でよく話題になっていました。

 当時は長寿刑事ドラマが多くて、誰かが殉職したら「次は誰が殉職するのか?」とよく同級生と噂したものでした。
 そしてボギーの殉職、母親が買った週刊誌の誌面を見せてくれて、その死にざまを見ました。ナイフで刺されての殉職か…と予備知識がついた形になりましたが、4/6この日は中学二年生の始業式の日でもあり、朝一番は旧・中一のクラスで教室に入り、その後新クラスの教室に移り、中二として実質スタートして日でした。
 その晩に、このボギーの殉職を見ました。それまでの殉職と全く違う、人ごみの中での暗殺というバターン、1本のナイフでいともあっさりと、無音で展開される異様なシーン、色々と衝撃的でした。刺されても何もできなかった、無念さがすごく残った殉職でもありました。やられても一矢報いるみたいなところがこのドラマの殉職シーンにはよくありましたが…、そういうものを全部覆した感がありました。

 そしてボギーの死後は後任補充なく、約半年後に石原良純さんが演じるマイコン刑事が、まず1ヶ月ほど前に2時間スペシャルで「コンピュータ専門の刑事」として本庁から派遣される形でゲスト出演し、その後正式に七曲署の仲間として登場する事となりました。西部警察終了後に間髪入れずにこの番組のレギュラーになった感じでした。同時に又野誠治さん演じるブルース刑事が先輩刑事になりました。マイコン刑事はアクションはあまりやらなかったので、アクション面は殆どブルースが引続き担当し続けていた格好で、彼の先輩であるラガー刑事の渡辺徹さんは自身の主演ドラマ「風の中のあいつ」と掛け持ちする事となり、出番がかなり減っていました。

 

次回は、この年に見た再放送作品について綴っていきたいと思います。

2023年11月28日 (火)

生活と思い出と世の中と(1984年②)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。65回目は1984年の第2回です。

 

この回は、自分の当時の出来事から世の中へと絡める形で綴ります。

 

●生活

この年は中一から中二になる年でしたが、1月は地元の「とんど祭り」に初参加しました。
地方により「どんど」とか色々言い方が違うようですが、うちの田舎は「とんど」です。

書初めを燃やしたりする行事ですが、それまで冬の早起きが苦手なのと参加する気がないのとで行った事がなかったのですが、行ってみるとなかなか面白いなという感じでした。今もまだ地方により風習は残っているようですが、廃れたところもあるのでしょうか。

この冬、すごく寒かったようで、1月末頃?中一にして生まれて初めての「積雪」を経験しました。うちの地方は雪が降るのも珍しいところで、積もるなんて一大事でした。中学校の運動場で雪合戦をしましたが、これももちろん生まれて初の経験でした。

落語家の林家小染さんがトラックにはねられて亡くなりました。酒が大好きで深酒にまつわるエピソードも少なくない、との事でしたが、こんな最期は…まだ35歳くらいだったけど、すごい貫禄のある方でした。

グリコ・森永事件が世間を賑わせましたが、関西で起こった事件だったので、怖さも感じました。最初はグリコの社長が誘拐され、「グリコ事件」と呼ばれていましたが、森永製菓も標的になり「グリコ・森永事件」と呼ばれるようになていきました。

前の記事にも書きましたが、地元の球場にオープン戦で阪急×広島が来て見に行きました。この年から阪急ブレーブスの大ファンになってしまい、そして日本シリーズではこの両チームが対戦したので、それはもう最後まで楽しんでいました。まさかこの4年後に阪急ブレーブスがなくなるなんて思いもしませんでしたね。いつかは公式戦を見たいと思っていたのが結局叶いませんでした。

ラジオの「歌のない歌謡曲」にハマっていました。ついこないだまで放送されていた大長寿番組ですが、当時歌謡曲よりもインストゥメンタルを聴く方が好きで、「太陽にほえろ!」の各刑事にテーマ曲があったように、身近な友達の「○○のテーマ」を探して、「この曲、○○にピッタリじゃない?」とか友達に聞かせてました。そのネタとして「歌のない歌謡曲」はうってつけだった訳です。

「マイコンBASICマガジン」(通称「べーマガ」)という雑誌にもハマりました。「マイコン」ですから(笑)昭和ですねぇ。 当時のパソコンなんてヲタクのやるものでした。自分もTV画面のついたすごいパソコン?持っていませんでした(憧れでした)が、電卓の延長上のようなポケコン(=ポケットコンピュータ)は、この前年に買ってもらって持っていました。
この雑誌は、一般のパソコンユーザーがプログラムを組んだものが誌上に紹介されていましたが、それに沿ってポケコンでプログラムを組んでゲームを楽しんだりしていました。あと、このポケコンは1つブログラムを組むと、メモリー(「ステップ」といっていました)がそれでいっぱいになるので、増設のカセットインターフェースをつないでデータをセーブしないと、他のプログラムが入れられない状態でした。それでカセットテープにセーブするんですが、それをラジカセで聴くと、ひたすら♪ピーーーピピピッピーーみたいな音が聞こえてきていました。この時代からすると、今みたいにこんなにパソコンが扱いやすくなって、誰でもやるようになるとは夢にも思いませんでした。

↓当時のポケコン。カシオのPB-100(今も手元にあります)
 すり切れててスミマセン
Pb100

お正月に、久々に仮面ライダーの本放送を見ました。この時代仮面ライダーの放送がなく、1981(昭和56)年秋に「仮面ライダー・スーパー1」が終了し、1987(昭和62)年に「仮面ライダーBLACK」が放送されるまで6年間ありませんでしたが、ちょうどその真ん中の時期で、この時単発の特番のような形で「10号ライダー誕生」としてZX(ゼクロス)が登場し、V3の宮内洋さんなどは先輩として登場していました。で、その宮内さんがV3風見志郎の役そのままで、ビデオを見せて先輩ライダーの紹介をしながら、仮面ライダーの歴史を語るのですが、「そのビデオどこで撮ったん?」と中学生ながらに突っ込みたくなるほどでした(笑) ライダーマンの山口豪久(山口曉)さんも出ていましたが、この当時かなりの晩年で2年後くらいに亡くなっていました。晩年は事業に忙しかったといいますが、この時が俳優としての遺作だったそうです。

この時の事で思い出すのは、今みたいにこういう番組は幅広い年齢層で見るものではなく、「中学生にもなって、まだ仮面ライダーなんか見るの?早く卒業しなさい」と親から言われ、それがまた珍しい事ではなかった時代でした。アニメなんて子供の見るものであって、大人になってそんなものみるなんて、小さい子の親でもない限りあり得ない、そんな風潮の強かった時代でした。そういう意味で、今はいい時代だなと思います。

お札が変わりました。新札になったのです。諭吉の1万円札はこの時から始まりました。
五千円札は新渡戸稲造、千円札は夏目漱石でした。それまで一万円も五千円も聖徳太子で、千円のみ伊藤博文でしたが、当時中二でまだ小遣いが月4,000円だったので、五千円札とか万札とか普段見る事はなく、親から見せてもらうのが精一杯でした。

横綱・北の湖が優勝した最後の年でした。この当時の北の湖はかつての「憎たらしいほど強い」横綱の姿は消え30歳も越えて、思わぬ金星を提供したり、長く休場したり、すっかり往年の力は消えていました。それでも1場所は優勝を決め、翌年の両国新国技館最初の場所までなんとか土俵人生を永らえる事ができました。

この時絶頂期だったのが大関・若嶋津でした。全勝優勝を含め2度の優勝で、横綱は時間の問題と言われるほどでしたが、ケガなどに悩まされ結局はその後があまり続きませんでした。その他の事は前の記事で結構書いています。

最後の家族旅行はこの年に行きました。うちは家族旅行という習慣がなく、あっても父の会社の社員旅行に家族も乗っかるというそんな感じでしかなく、両親が出不精で車もなかったので、ホントに旅行に出る概念がありませんでした。大人になって自分が旅しまくってるのは、あるいはその反動かもしれません。で行った先は小豆島でした。3年ぶり2度目に来ましたが、これも父の会社の旅行でした。

中二の新しいクラスになって、特に前半は不遇でした。

中一のクラスが楽しすぎてめちゃめちゃ浮かれてましたが、中二は昼休みに野球しても、チーム決めの時に「取りもん」で一人ずつ取っていくんですが、いつも最後まで残った「残り物」で、実際三振やエラーばかりしてて、スポーツ大会?でもザコ扱いで、スポーツに対するコンプレックスが大きかったですね、ちょっとぐらい馬鹿でもいいからスポーツできた方が良かった、と小さい頃ずっと思ってました。

頼みの勉強も中一の終りから徐々に成績が下がっていき、一学期の期末は自己最低のところまで落ち込みました。

また途中から転校してきた奴に悪い形で目を付けられ、いじめに遭いかける状況で、このまま他の奴からも餌食にされたら「終わる」と思ってました。不登校を考えるようなものではなかったし、学校へ行かないという発想自体がなかったですが、ちょっとまずい状況になってきていました。

しかし、10月が来ると何もかも好転、そいつがまた転校することになり、状況が一変、何の心配もない状態になりました。野球でも時々は活躍したりホームラン打ったり、どうしようもない状況から抜けました。これぞ運です。運以外何物でもなく。

クリスマス前後に忘年会的な形で、小学校からの仲良し4人で集まってお菓子買いまくってパーティーをしました。中学時代のこういうパーティーって単純に楽しかったですね。友達の家にカラオケ機器(!)があって、カートリッジをガシャっとはめてBGMが流れてくる奴で、当時まだ近所にカラオケBOXなんてないし中学生だし、というのでこういう機器がある家って「すごい」って感じでした。歌える曲がすごく限られてて、演歌中心でアイドルポップスが少々って感じでした。

こんなかんじで昭和50年代の最後が過ぎていきました。

 

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