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日記・コラム・つぶやき

2023年11月28日 (火)

生活と思い出と世の中と(1984年②)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。65回目は1984年の第2回です。

 

この回は、自分の当時の出来事から世の中へと絡める形で綴ります。

 

●生活

この年は中一から中二になる年でしたが、1月は地元の「とんど祭り」に初参加しました。
地方により「どんど」とか色々言い方が違うようですが、うちの田舎は「とんど」です。

書初めを燃やしたりする行事ですが、それまで冬の早起きが苦手なのと参加する気がないのとで行った事がなかったのですが、行ってみるとなかなか面白いなという感じでした。今もまだ地方により風習は残っているようですが、廃れたところもあるのでしょうか。

この冬、すごく寒かったようで、1月末頃?中一にして生まれて初めての「積雪」を経験しました。うちの地方は雪が降るのも珍しいところで、積もるなんて一大事でした。中学校の運動場で雪合戦をしましたが、これももちろん生まれて初の経験でした。

落語家の林家小染さんがトラックにはねられて亡くなりました。酒が大好きで深酒にまつわるエピソードも少なくない、との事でしたが、こんな最期は…まだ35歳くらいだったけど、すごい貫禄のある方でした。

グリコ・森永事件が世間を賑わせましたが、関西で起こった事件だったので、怖さも感じました。最初はグリコの社長が誘拐され、「グリコ事件」と呼ばれていましたが、森永製菓も標的になり「グリコ・森永事件」と呼ばれるようになていきました。

前の記事にも書きましたが、地元の球場にオープン戦で阪急×広島が来て見に行きました。この年から阪急ブレーブスの大ファンになってしまい、そして日本シリーズではこの両チームが対戦したので、それはもう最後まで楽しんでいました。まさかこの4年後に阪急ブレーブスがなくなるなんて思いもしませんでしたね。いつかは公式戦を見たいと思っていたのが結局叶いませんでした。

ラジオの「歌のない歌謡曲」にハマっていました。ついこないだまで放送されていた大長寿番組ですが、当時歌謡曲よりもインストゥメンタルを聴く方が好きで、「太陽にほえろ!」の各刑事にテーマ曲があったように、身近な友達の「○○のテーマ」を探して、「この曲、○○にピッタリじゃない?」とか友達に聞かせてました。そのネタとして「歌のない歌謡曲」はうってつけだった訳です。

「マイコンBASICマガジン」(通称「べーマガ」)という雑誌にもハマりました。「マイコン」ですから(笑)昭和ですねぇ。 当時のパソコンなんてヲタクのやるものでした。自分もTV画面のついたすごいパソコン?持っていませんでした(憧れでした)が、電卓の延長上のようなポケコン(=ポケットコンピュータ)は、この前年に買ってもらって持っていました。
この雑誌は、一般のパソコンユーザーがプログラムを組んだものが誌上に紹介されていましたが、それに沿ってポケコンでプログラムを組んでゲームを楽しんだりしていました。あと、このポケコンは1つブログラムを組むと、メモリー(「ステップ」といっていました)がそれでいっぱいになるので、増設のカセットインターフェースをつないでデータをセーブしないと、他のプログラムが入れられない状態でした。それでカセットテープにセーブするんですが、それをラジカセで聴くと、ひたすら♪ピーーーピピピッピーーみたいな音が聞こえてきていました。この時代からすると、今みたいにこんなにパソコンが扱いやすくなって、誰でもやるようになるとは夢にも思いませんでした。

↓当時のポケコン。カシオのPB-100(今も手元にあります)
 すり切れててスミマセン
Pb100

お正月に、久々に仮面ライダーの本放送を見ました。この時代仮面ライダーの放送がなく、1981(昭和56)年秋に「仮面ライダー・スーパー1」が終了し、1987(昭和62)年に「仮面ライダーBLACK」が放送されるまで6年間ありませんでしたが、ちょうどその真ん中の時期で、この時単発の特番のような形で「10号ライダー誕生」としてZX(ゼクロス)が登場し、V3の宮内洋さんなどは先輩として登場していました。で、その宮内さんがV3風見志郎の役そのままで、ビデオを見せて先輩ライダーの紹介をしながら、仮面ライダーの歴史を語るのですが、「そのビデオどこで撮ったん?」と中学生ながらに突っ込みたくなるほどでした(笑) ライダーマンの山口豪久(山口曉)さんも出ていましたが、この当時かなりの晩年で2年後くらいに亡くなっていました。晩年は事業に忙しかったといいますが、この時が俳優としての遺作だったそうです。

この時の事で思い出すのは、今みたいにこういう番組は幅広い年齢層で見るものではなく、「中学生にもなって、まだ仮面ライダーなんか見るの?早く卒業しなさい」と親から言われ、それがまた珍しい事ではなかった時代でした。アニメなんて子供の見るものであって、大人になってそんなものみるなんて、小さい子の親でもない限りあり得ない、そんな風潮の強かった時代でした。そういう意味で、今はいい時代だなと思います。

お札が変わりました。新札になったのです。諭吉の1万円札はこの時から始まりました。
五千円札は新渡戸稲造、千円札は夏目漱石でした。それまで一万円も五千円も聖徳太子で、千円のみ伊藤博文でしたが、当時中二でまだ小遣いが月4,000円だったので、五千円札とか万札とか普段見る事はなく、親から見せてもらうのが精一杯でした。

横綱・北の湖が優勝した最後の年でした。この当時の北の湖はかつての「憎たらしいほど強い」横綱の姿は消え30歳も越えて、思わぬ金星を提供したり、長く休場したり、すっかり往年の力は消えていました。それでも1場所は優勝を決め、翌年の両国新国技館最初の場所までなんとか土俵人生を永らえる事ができました。

この時絶頂期だったのが大関・若嶋津でした。全勝優勝を含め2度の優勝で、横綱は時間の問題と言われるほどでしたが、ケガなどに悩まされ結局はその後があまり続きませんでした。その他の事は前の記事で結構書いています。

最後の家族旅行はこの年に行きました。うちは家族旅行という習慣がなく、あっても父の会社の社員旅行に家族も乗っかるというそんな感じでしかなく、両親が出不精で車もなかったので、ホントに旅行に出る概念がありませんでした。大人になって自分が旅しまくってるのは、あるいはその反動かもしれません。で行った先は小豆島でした。3年ぶり2度目に来ましたが、これも父の会社の旅行でした。

中二の新しいクラスになって、特に前半は不遇でした。

中一のクラスが楽しすぎてめちゃめちゃ浮かれてましたが、中二は昼休みに野球しても、チーム決めの時に「取りもん」で一人ずつ取っていくんですが、いつも最後まで残った「残り物」で、実際三振やエラーばかりしてて、スポーツ大会?でもザコ扱いで、スポーツに対するコンプレックスが大きかったですね、ちょっとぐらい馬鹿でもいいからスポーツできた方が良かった、と小さい頃ずっと思ってました。

頼みの勉強も中一の終りから徐々に成績が下がっていき、一学期の期末は自己最低のところまで落ち込みました。

また途中から転校してきた奴に悪い形で目を付けられ、いじめに遭いかける状況で、このまま他の奴からも餌食にされたら「終わる」と思ってました。不登校を考えるようなものではなかったし、学校へ行かないという発想自体がなかったですが、ちょっとまずい状況になってきていました。

しかし、10月が来ると何もかも好転、そいつがまた転校することになり、状況が一変、何の心配もない状態になりました。野球でも時々は活躍したりホームラン打ったり、どうしようもない状況から抜けました。これぞ運です。運以外何物でもなく。

クリスマス前後に忘年会的な形で、小学校からの仲良し4人で集まってお菓子買いまくってパーティーをしました。中学時代のこういうパーティーって単純に楽しかったですね。友達の家にカラオケ機器(!)があって、カートリッジをガシャっとはめてBGMが流れてくる奴で、当時まだ近所にカラオケBOXなんてないし中学生だし、というのでこういう機器がある家って「すごい」って感じでした。歌える曲がすごく限られてて、演歌中心でアイドルポップスが少々って感じでした。

こんなかんじで昭和50年代の最後が過ぎていきました。

 

2023年11月18日 (土)

生活と思い出と世の中と(1984年①)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。64回目は1984年の第1回です。

 

この年は昭和59年、遂に昭和50年代まで遡ってきました。

この年、中1から中2になる年でしたが、当時の出来事と自分とを絡めながら綴っていきます。

 

●ニュース

「ロス疑惑」

 …大人のよく分からない事件、そんな感じで、保険金の事とかも全然知らず、当事者の名前だけが独り歩きするかの如く、有名になっていきました。同姓同名のサッカー選手の存在を知ったのもこの時期でした。まだ17歳くらいで、日本にプロのサッカーリーグのない時代で、たまたま新聞で目にしただで、ロス事件の人とおんなじ名前だ、ぐらいしか認識がありませんでした。この時はロスでオリンピックを夏に控える状況だったので、とかくロサンゼルスの地名が前へ出た年だったと思います。

「植村直己氏マッキンリー遭難」

 …当時ちょうど中学の国語の教科書に、植村直己氏に関するものが載っていて当時まだ存命者としてプロフィールが記されていましたが、これを授業で習って程ない頃か、にこのニュースが流れてきました。数々の山を征服して、登れない山はない、くらいの勢いだった彼が、マッキンリーの登頂に成功したニュースが流れてきて「さすがだな」と思った矢先に、直後暗転して「遭難」の報が流れ「消息不明」となったのがより一層悲しかったです。この4月にクラス替えでクラスにウエムラという人がいて、彼は「ナオミ」とあだ名されていました(笑)

「グリコ・森永事件」

 …中学生の自分にも分かり易い、それだけ衝撃の大きい脅迫事件でした。

 それも地元・兵庫県で発生し、慣れ親しんでいる「江崎グリコ」の社長が誘拐されたというショッキングな幕開けでした。

 社長が無事・解放された後も脅迫が続き「キツネ目の男」の顔写真が一躍有名になりました。また脅迫内容も報道され、中学生だった自分たちはよく学級日誌に先生宛にこの脅迫文を真似した書き方をしたりもしていました。

 この事件の時に「ファミリーマート」というコンビニを知りました。当時、自分の校区にコンビニなどなく、ローソンはCMで知っていた程度で「ファミリーマート」なんて、それまで聞いた事もありませんでした。

「銭形平次」終了

 …水曜の20時といえばこの番組でした。というぐらい、物心ついた時からいつもそのオープニングは目にしていました。
 だから終わるなんて考えられなかったですが、4月4日をもって終了しました。
 888回、18年も連続して放送されていたなんてその時知った訳で、当時13歳の自分からしたら人生以上の歳月で、ただただすごいなという印象でした。「1人の俳優が同じ主人公を演じ続けたドラマ」の最多回数記録としてギネス認定されているといいます。

 しかしさらに驚いたのは、この年の暮れに主演の大川橋蔵さんが55歳の若さで亡くなった事でした。健康上の理由で勇退されたのかと思いましたが体調を崩したのが9月の事で、4月には番組が終了していましたが、実際健康上の不安がその時になかったのか今となっては分からないですね。

「鈴木啓示投手の通算300勝達成」

 …近鉄の大エース・鈴木啓示投手が通算300勝を達成、現時点においてもNPB最後の300勝投手であり、投球回数の制限や実績をあげたらすぐメジャーへ行ってしまう今のプロ野球では300勝はおろか200勝投手すら誕生もままならない気がします。この当時は200勝投手も山田久志投手(阪急)、東尾修投手(西武)、平松政次投手(大洋)など何人もいた状態で、分かり易いチームの顔が各チームにいました。

「高見山引退」

 …大相撲で外国出身力士として大人気を博していた高見山関が十両で大負けして、関取の座を維持できない事が確定し引退しました。
 最後まで堂々と取り組み、負けた時には土俵を叩いて悔しがっていたのが大変印象的でした。
 幕内での優勝も経験し、CMにも出たりタレント性があり、大きな体と長いもみあげなど独特の風貌でとにかく人気の高い力士でした。

「生放送の停電」

 …当時終末期とはいえまだまだ人気のあった生放送のお笑い番組「8時だヨ!全員集合」で、オープニング時に突然停電し、真っ暗闇の中で約9分、懐中電灯を照らしながら場をつなぎ、やっと復旧してスタート、という事がありました。後々にも語り継がれる番組史上屈指の迷シーンでしたが、バラエティーを毎週生放送でやっていたって今考えたら本当にすごいですよね。

「京都・大阪連続殺人事件」

 …元警官だった男が、現職警察官を殺害して拳銃を奪い、大阪でもその拳銃で殺人を行ったというゾッとする連続殺人事件でした。

「さよなら蔵前国技館」

 …大相撲の東京場所として現在の両国国技館になる前は、この蔵前国技館で開催されていました。その最後の場所がこの年9月の秋場所で、この時は多賀竜が平幕優勝を果たすという劇的な結末でも、春に引退した高見山の後継のごとく現れた小錦も12勝3敗で「小錦旋風」を巻き起こしました。

「広島×阪急の日本シリーズ」

 …この年、個人的にオープン戦で地元の球場にやってきたのがこの両チームで、まさにこの試合を見に行ってました。
 阪急は前年のオープン戦も同じ球場に来てて2年連続試合を見た訳ですが、阪急の球団が発行した「イヤーブック」を買って、それからというものすっかり「阪急」のファンになってしまいました。
 昔、憎たらしいほど強かった阪急はむしろ嫌いな球団でしたが、1978年を最後に優勝から遠ざかったこのタイミングでこんなにハマるとは…と自分でも不思議でした。
 阪急はこの年快進撃でペナントを乗り切り、西武の連覇を断ち切って見事リーグ優勝を果たしました。毎日のようにテレビを見るかラジオを聴くか翌朝の新聞を見るかして、毎試合の成績をノートに書いたりするほどでした。

 そして日本シリーズ、広島・長嶋、阪急・福原各選手の満塁ホームランが出て、意外性も含めた波乱のシリーズとなりました。結局阪急は敗れ日本一は逃しましたが、昭和最後のリーグ優勝は立派で見事でした。福本、弓岡、簑田、ブーマー、松永…という打線は不動で、素晴らしいものでした。捕手では藤田浩雅捕手がレギュラーに定着し、今後10年安泰といわれました。投手では山田久志、21勝を挙げた今井雄太郎佐藤義則の3本柱でほぼ勝っていて、この年ブレイクしたベテラン左腕の宮本四郎投手が活躍し、抑えに回った山沖之彦投手がフル回転しました。

「ロス五輪」

 …夏冬同年開催だったこの当時、冬はサラエボ五輪でしたが、夏はアメリカ・ロサンゼルスでオリンピックが開催されました。前回の1980(昭和55)年モスクワ五輪がありましたが、日本は不参加だったので見る事ができず、実施生まれて初めてまともに見たオリンピックでした。

水泳の長崎宏子選手がとにかく注目されました。柔道の山下泰裕選手は期待に応え、見事金メダルを獲得しました。当時NHKで中継をしていましたが、競技成績を送るコーナーがあって、これを当時NHKアナウンサーだった草野仁氏が務めていたのを覚えています。

「西部警察」終了

 …1979(昭和54)年から始まった「西部警察」のシリーズが前年より「PARTⅢ」となっていましたが、この10月に5年間の放送が終了しました。視聴率が絶好調の中惜しまれながらの終了でしたが、最後は団長である大門自身の殉職という幕切れで、石原裕次郎さんの木暮課長が大門の亡骸を目の前にして泣く姿はもはや演技を越えたものがありました。

「エリマキトカゲ」

 …ビックリした時に二本足で走る「エリマキトカゲ」が突如卯注目され、大流行となりました。個人的にうちの母親も、そのエリマキトカゲのTシャツを着ていました(笑)

「新紙幣」

 …一万円札が現在も続く福沢諭吉になったのはこの年でした。
 五千円札は新渡戸稲造、千円札は夏目漱石になりました。それまで一万円と五千円は聖徳太子で、千円は伊藤博文でした。
 特に聖徳太子の五千円札は今より値打ちの高いお札のように見えたものでした。

「ミソラ…」

 …この年引退する都はるみさんについて、大晦日の紅白歌合戦で、名前を間違えられる一幕がありました。

「名称変更」

 …トルコ風呂といわれたいたものが、ソープランドという名称となったのはこの年でした。よく昔のドラマでも街が映る時に「トルコ」などとネオンがありましたが、トルコに対する侮蔑でというのは分かる気がします。

 

2023年10月22日 (日)

生活と思い出と世の中と(1985年④)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。63回目は1985年の第4回です。

この年に見た再放送のドラマについて綴ります。

 

●ドラマ(再放送)

「必殺仕置人」

 …初めて見た必殺シリーズがこの作品でした。1973(昭和48)年放送で、この当時から見ても12年前で、当時15歳の身としては遥か昔の作品、という感じでした。すごく古すぎる感があった、というか。なんとなく知っていた山崎努さんの顔と名前が完全に一致しました。既に故人となっていた沖雅也さんが若くてかっこよかった印象が強かったです。
 そしてなんといってもこの作品は、藤田まことさんが中村主水として初出演した作品でしたが、その主水は主演ではなかったことが驚きでした。

「虹のエアポート」

 …1975(昭和50)年放送で、当時のサンテレビでは大体10年前のドラマを午後4時に再放送していて、古いドラマ大好きな中学生には「宝庫」でした。あまり見れなくて桜木健一さんが主演していた飛行機モノぐらいな記憶しかありません。

「青春諸君・夏」

 …1980(昭和55)年放送で、タイトル通り「夏」に再放送されました。
 田中健さんの主演で、寮が舞台ですが、登場人物のほとんどが「杉下」というもので家族ではないけど家族のようなドラマでした。
 1989(平成元)年、大学生の時に下宿先でも再放送で見れました。

「ゆうひが丘の総理大臣」

 …何度か再放送していた記憶がありましたがちゃんと見たことがなく、前年1984(昭和59)年もやっていた覚えがありますが、途中で高校野球か何かで放送されなくなり、再開もされないままでした。そのリベンジか分かりませんが、この年はフルで再放送され、また自身もちゃんと見ました。
 似たような作品を1982(昭和57)年の夏に見ていましたが、それは「青春ド真中!」で、その後にこの番組が再放送されていたはずですが見れていませんでした。由美かおるさんや岡田奈々さん、篠ひろ子さんなどこのドラマで顔と名前が一致しました。

「TOKYO DETECTIVE 二人の事件簿」

 …1975(昭和50)年放送の刑事ドラマで、先述の「虹のエアポート」の次にサンテレビで再放送されました。
 「二人の事件簿」って何か聞いたことあるな、昔再放送で見たものか?と記憶と全然違ったもので、初見なのだろうか?と思いながら時々見ていました。植木等さんがヒゲを生やしていたのが印象的で大泉滉さんと混同してしまっていました(笑)

「新二人の事件簿・暁に駆ける」

 …「二人の事件簿」の続編です。続編があったというのをこの時初めて知りました。と同時に、昔おぼろげな記憶があった「二人の事件簿」とはこちらの方でした。主題歌である「暁に駆ける」(牧美智子さん)のメロディーがおぼろげな記憶にヒットしました。
 どちらもレギュラー陣はほぼ同じですが、毒蝮三太夫さん演じる鬼塚刑事が出ているのが本作の大きな違いです。毒蝮さんをウルトラマンシリーズ以外のドラマで見たのは、個人的にこの作品くらいですね。

 主人公である二人は篠田三郎さんと高岡健二さんですが、キャスト紹介で前作では○○刑事でしたが、今作ではこの二人のみがフルネームで、よりバディ色の強い感がありました。

「大非常線」

 …千葉真一さん主演の刑事ドラマで1976(昭和51)年放送作品でした。先述「新二人の事件簿・暁に駆ける」が終了してサンテレビで放送されました。次回番組紹介で「大非常線」と出ていて、当初は(自分の知っていた)「大捜査線」じゃないのか?と思いましたが、これとは全く別の作品があった事を知りました。

 たった10回だけの放送で最終回は「高山刑事殉職」とあり、高山刑事は主演の千葉さんなのか?それも分からず、また学校に行ってて再放送も見れずにあっという間に終わりました。毎回レギュラー陣がフルに出てなくて誰か欠場してるな、というのがほんの数回だけ見た時の感想でした。

「俺たちの旅」

 …これもサンテレビで再放送していました。それまでおそらく読売テレビ何度も再放送していたであろうと思いますが、興味がわかなかった事もあり、この時もそんなに見たいと思っていませんでした。「ゆうひが丘の総理大臣」などのような中村雅俊さんのドラマだろうぐらいな感じでした。

この当時、秋にこの番組の10年後を描いた「10年後の再会」が放送され、この番組の存在をはっきりと知りました。それから程なくこの再放送が始まり、なんとなく見ていたらものすごくハマりました!それまで大して興味のなかった「青春ドラマ」大好き人間に変わり、中三で受験期でもあり将来の事を少なからず考えていた頃でもあり「人生とは?」の問いに答えをくれたようなドラマでした。

「太陽にほえろ!」

 …当時まだ放送中でしたが、昔の時期の再放送で、そしてこの時初めて朝の再放送となりました。
 朝の10:25~再放送されても、今みたいにビデオもないし見れるはずもありませんでした。

 それまでずっと午後4時、学校帰ってから見てたのに、なんで朝??ずっと思っていました。
 これ以降、午後に再放送する事はなく、朝の再放送だけになってしまい、翌年には番組も遂に終わってしまう事となります。

「西部警察PARTⅡ/PARTⅢ」

 …本放送をバリバリ見ていたので、ここで殊更に書かなくてもという感じですが、毎日昼間に見れるのはやはり嬉しかったですね。

 

↓当時の新聞テレビ欄です

1985tv

 

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2023年10月 9日 (月)

生活と思い出と世の中と(1985年②)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。61回目は1985年の第2回です。

当時の生活から世の中に絡めて綴りたいと思います。

 

この年は中学2年から3年の年でした。

まずは高校受験でしょうか。

高校受験の時が最も勉強したような気がします(笑)

その辺は後にするとして、なにせ昭和が「60年」になったということもあり新時代的なものを感じました。

自分記憶として昭和40年代は皆無で、実質昭和50年代の中だけを生きてきた感があって、それが変わるというのは大きい事でした。

 

1月は大相撲の新国技館での初場所をよく見ていました。

それまでの蔵前国技館からの両国の新国技館での「こけら落とし」の場所。こけら落としって言葉はこの時覚えました。

そしてこの場所で、横綱北の湖の引退…

新しい国技館にギリギリ立てたものの、この場所限り…、時代の変わり目を感じた瞬間でした。

新入幕に、花乃湖、琴ヶ梅、寺尾、藤ノ川(服部)…と新しい力の台頭もありました。

2月は「太陽にほえろ!」で渡辺徹さん演じるラガー刑事が入院の形で一旦一線から外れました。

タイトルは「ラガー倒れる」。スケジュール調整だったようですが、かなり太り過ぎていて走り回るのも難しそうに見えました。

劇中で、徹底的に膝を痛めつけられ、入院時「骨肉腫」と判明、「このまま死んでいくのか?」とか思っていました。

その後数回は入院している設定でベッドでの出演のみでした。4月に復帰しますが、8月に殉職します。この件は後程。

3月は中二で最後の月となりました。

中二時代は前半から10月になるにしたがって状況が悪化しましたが、10月を境に好転しました。平たく言えば、いじめに遭いかかるところでしたが、最も嫌だった奴が転校してくれたおかけで、周りの状況も完全に好転し回避できました。運命の分かれ道を感じました。

そして4月、中三になりました。

春休み、母親と大喧嘩して数日口を聞かなかった時期がありましたが、やはり家族でやはり親子、いつの間にか元のさやに納まってるんだから不思議なものですね。ちゃんと家族というものが機能していた、、親には感謝です。あまり肯定されてきた感がなかったのは寂しかったですが…

プロ野球選手名鑑、なるものを初めて買いました。200円で。安い…。

期待の新人として郭泰源(西武)、広沢克己(ヤクルト)、武田光訓(大洋)などの選手がカラー写真入りで載っていました。基本全選手の名鑑はここではモノクロで載っていました。

そしてそのプロ野球、4月は阪神戦できついシーンがありました。バース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発もありますが、その前の巨人・河埜選手の痛恨の落球がありました。2アウトだったのでランナーが走っていて点にもなりました。河埜選手がこの後、まともに機能しなくなってしまったのが実に残念でした…

ドラマ「ただいま絶好調」が始まりました。「西部警察」の終了から半年、待望の石原プロ制作のドラマがスタートしました。

クレジット上は渡哲也さんが主演ですが、実質の主人公は舘ひろしさんで、彼らの組んだロックバンドがアメリカのマジソン・スクエアガーデンへ旅立つまでの軌跡をユーモアいっぱいに描いた作品で、視聴率は??でしたが個人的には好きなドラマでした。

「ビートたけしのスポーツ大将」もこの4月スタートでした。2年間放送して、しばらく休止を経てまた2年間放送されました。

たけし軍の野球コーナーが最も好きでしたね。時々元プロ選手も出てきたりして。あとはカールルイスに似せた「カール君」をレールの上で走らせて100m走るコーナーもあったような。

一方で終わる方では、「欽ドン」が終了しました。正確には欽ドンのシリーズとして後も続いていきますが、「欽ドン!良い子悪い子普通の子」としては終了しました。タイトルは正確には「欽ドン!良い子悪い子普通の子おまけの子」というタイトルに変わっていましたが、小5から見てたこの番組、月曜の夜はこれ見て寝てたというのを中2までやっていましたが、当時萩本欽一さんが「休養」という事でレギュラー全番組を降板するという事で「視聴率100%男」のひとつの時代の幕切れ、という感じです。

受験の年になって勉強もしていかないと…という中で、いろんな面白い番組に出会ってしまう誘惑にも多々やられました(笑)

6月に初めて淡路島へ行きました。船で。おのころアイランドだったか、不思議と記憶がないのですが…。

その帰った後に家で見たテレビ番組で、石原裕次郎さんのショーみたいなのがやっていました。渡哲也さんはじめ石原軍団が一堂に会していたような記憶があります。

そしてこの月には「聖輝の結婚」がありました。映画「カリブ・愛のシンフォニー」での共演がきっかけで、あれよあれよという感じでした。

7月は夏休みに入りましたがこの時目覚めたのが体力づくりとDIYでした。

体力づくりは、体育の成績が悪かったので、体力上げないとと思って色々課しました。今あるか分かりませんがエキスパンダーなど買ったり(笑)

DIYは中学の「技術家庭」で学んだ「電機」が面白くて、どうせ課題もあるし何かつくろうという事で、当時あった「ハンデーエーモン」というホームセンターへ足しげく通っていました。中学時代にあまり校区外へは行きませんでしたが、ここだけは行ってました(笑)

最終的には導通のテスターを作りましたが、ホームセンターってそれまで殆ど行った事がなく、実に色んなものが売ってるとこだな、と世界が広がった感がありました。それまでほとんど近所の市場や書店しか行かない生活でしたので。

この年から父親の会社の旅行行事に参加しなくなりました。自分の受験もありましたが、いい年になってきたのもあり、家族全員で会社の旅行に出かけたのは前年限りで、会社が絡まない家族全員の旅行もこの84年限りとなりました。

8月は前記事にも書きました、日航ジャンボ機墜落事故が衝撃すぎでした。

▼当時の新聞切り抜きがありました

1985

夏休み前後には、近くのラーメン屋へ餃子を食べに時々行ってました。

とにかく餃子に味噌だれの組み合わせが絶妙で、一般家庭の玄関を入ったような所にカウンターのあった店で、その直後何事もなかったかのように一般家庭の家屋になっていて、面影を見るべくもなくなっていました。店名の記憶も知る記録も残っておらず、幻のラーメン屋、そんなところが個人的にいくつかあります。

9月は阪神の21年ぶりの優勝機運が盛り上がる中で、巨人ファンとして肩身の狭い思いをしていました。

この年の阪神はとにかくイケイケでした。少々ピッチャーが悪かろうが打って取ったれ、って感じで。その勢いで日本シリーズで西武を破ったのは更に驚きでした。

この年は、英検4級を受験し合格し、続いて3級も受験しました。4級は一次の筆記だけでしたが、3級は二次もあって、一次は自分たちの中学校で試験をしましたが、二次は市内中心部の小学校まで出て、スピーキングの試験でした。
まだ4級までしかなかった頃で、この2年後に5級が新設されたといいます。3級のスピーキングはかなり心配でしたが、何とか合格できました。

中学最後の運動会(うちの学校では「体育大会」と称していました)があり、「やっと組体操から解放される」と思ったものでした。実際には高校でも一部やることになりましたが、ガッツリ組体操(くみたい)はこれで終わりになりました。今では一部で廃止されながら、まだまだ根強く残っていると聞きますが、タワーとかマジでやめてほしい、と思います。団結するどころか、わざと笑わすこと言う奴がいて力抜けてケガする寸前までいったのを度々経験したのもあったので。人と一致団結してことを成し遂げていく、的なことをここで経験しなかったので自分にとっては嫌なものでしかありませんでした。

中学が特にでしたが、強制ごとが多かったと感じます。昭和ですから、それが当たり前とも思っていましたが、今ならないだろうな的な。

この年の初めか?まだ中二の時に、偶々上ぐつで外へ出てしまったことがあり、体育の先生に横に並ばされてグーで顔面を殴られました。ちょうど人気ドラマ「スクール・ウォーズ」で山下真司さん演じるラグビー部の先生が生徒たちを並べて愛のムチを振るうシーンがありましたが、ホントそれでした。悪い事をしてるので罰せられるのは仕方ないし、殴られるのも当時は「殴られた」って感じだけで何もありませんでしたが、「先生、テレビの見過ぎじゃない?」とも思いました。
状況が違うので愛情なんか感じないし、今だったらこの先生大問題だろうな、という感じでしょうか。昭和だったので?殴られても親に泣きつく訳でもなく、親も学校に口出しする訳でもなく、先生と親が今みたいなギスギスしたものでもなく、それはそれで良かったとも思いますが。先生に殴られるなんて、日常茶飯事でもなかったけど、珍しい事ではなかったという感じでしたね。

カツアゲに何度か遭いました。大抵、何か買いに出かけたところを捕まって、必死で懇願して少しだけまけてもらった事もありましたが、自分から金取ったコイツらはまともな人生歩んでないだろうなと勝手に思っていますが、まともな大人になってたらなんか嫌ですね。これ以降、高校に入ってから金取られたり悪人に捕まったりした事は今まで一度もありませんが、中学3年間で3度カツアゲに遭ったのは良いものではないですね。坊主頭だったので中学生、とすぐ分かった不良集団が絡んできてました。

とか書いてると、人間関係でろくな思い出がない奴、みたいに思われるかもしれませんが、それなりに友達もいたし、別に不登校になるような事もなく、そんな事は考えた事もなかったですね。ただすごくいい思い出があった訳でなく、悪い思い出が目立つだけです。ただ、外にいるより家の中で見たTVに関する想い出が多くて、この記事の前半もTVがらみの事になってるのは、そういう訳です。

そういえば、中学時代は自分のわがままで友達とケンカしてそれっきりになってしまった事も何度かあり、後悔もしますがそういう運命だったのかなとも感じます。どっちみち高校以前の同級生とは誰一人とも繋がることなく現在生きているので、当時の親友とも別れ、それも後悔してなくて、という感じです。特に断絶した訳でなく、故郷を離れているうちになんとなくそうなってしまいました。

そう、この年の自分的キーワードの一つに「内申書」があります。「内申が…」なんてことをどれだけ同級生との会話で出てきたか…。高校受験には避けて通れないものでした。いまでもあるようですね。

 

2023年10月 1日 (日)

生活と思い出と世の中と(1985年①)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。60回目は1985(昭和60)年の第1回です。

 

なんといっても日航ジャンボ機墜落事故は衝撃的すぎました。

そして阪神タイガースの「アレ」があったのもこの年でした。

 

自分が中二から中三になる年でしたが、当時のニュースと自分の生活を絡めて綴っていきます。

 

●ニュース

・日航ジャンボ機墜落事故

 日本中が震撼したといっても過言ではないレベルの大惨事でした。

 乗客乗員520名という、これは航空機事故で最大の死者数だそうで、それまでも航空機事故の類は何度かは聴いていたものの、これほどの大惨事は知らないくらいのレベルでした。

 8月のお盆に入る頃で、我々は中学生だったので夏休み真っ最中でしたが、とにかく臨時ニュースの連続で、搭乗者氏名がカタカナでどんどん明らかになっていき、その中には坂本九さんなどの有名人もいました。
 これをキャンセルして難を逃れた明石家さんまさんなど何人かそういう方もいたそうですが、お盆時期で東京-大阪間だとすぐ満席になるだろうなというところで、こんな大惨事の中に生存者が4名いた事もまた驚きでした。

 

・阪神タイガース日本一

 今年も成し遂げた「アレ」を、当時21年ぶりに実現し、リーグ優勝だけでなく、西武を破って日本一にもなりました。

 関西にいると、それはもうお祭り騒ぎのようで、当時中学校の運動会の出し物で仮装行列がありましたが、そこでもあるクラスが「トラフィーバー」として、運動場を練り歩いていました。
 この時は阪神の隠れファンやにわかファンもどんどん現れて、生粋の巨人ファンである自分は随分肩身の狭い思いもしました。

 巨人・槇原投手が打たれたバース・掛布・岡田のクリーンアップのバックスクリーン3連発は衝撃であり屈辱でした。それまでバース選手はたしか打率が1割台で調子悪かったと記憶していますが、ここで完全に火をつけたなと感じました。

 

・豊田商事会長刺殺事件

 豊田商事の悪徳商法により多くの被害者が出て問題になっいて、その会長が逮捕されるとの報を受けて自宅前に多くの報道陣が詰めかけている中、男たちが窓ガラスを割って侵入し、中にいる会長を刺殺して多数のカメラの前に出てきたこの事件は衝撃でした。殺害シーンこそ映されなかったものの、殺してすぐ出てくるというあまりに堂々とし過ぎた殺人事件で。
 当時放送されていた「刑事物語'85」という渡瀬恒彦さん主演のドラマで、この事件が題材として使われていた覚えがあります。

 

・両国国技館 こけら落とし

 大相撲でそれまで東京場所が開催されていた蔵前国技館が1984(昭和59)年の9月秋場所限りで役目を終え、この年1月からは両国国技館で開催されることとなりました。
 当初はよく「新国技館」という表現をされていました。
 そして新入幕力士が4人もいて、いずれもイキのいい力士たちで、その中には寺尾関もいました。
 新旧交代の時期でもあり、新勢力が台頭する中で、「憎たらしいほど強い」横綱・北の湖が遂に引退をしたのが、この新国技館こけら落としの初場所でした。31歳、若い頃から全盛期を築きましたが、その分衰えも早かったかなという感じでした。

 

・田中角栄元首相の脳梗塞

 ロッキード事件で有罪判決を受けた田中角栄首相が脳梗塞を発症し、政治の表舞台から事実上の引退との報道がありました。
 有罪判決を受けながら国会議員を続けていたのも不思議だし、出馬すれば圧倒的な得票数で当選していたのも、中学生ながらに不思議でなりませんでした。大人になればなんとなくわかりましたが、今の時代なら完全アウトだろうなと思います。

 

・つくば'85開催

 いわゆる「つくば万博」が開催されました。

 個人的に万博と聞いて真っ先に浮かぶのが、このつくば万博です。
 当時、東京方面へ修学旅行へ行っていた元中学の同級生が、万博で見た映像に使った赤青の3Dメガネを送ってくれたのを覚えています。
 「太陽にほえろ!」渡辺徹さん演じるラガー刑事の殉職時に、殺し屋たちが狙っていたのが、このつくば万博の観光バスで、このバス狙撃を食い止めるためにラガーは自ら盾となって殉職しました。

 

・「夕やけニャンニャン」スタート

 おニャン子クラブが世に出た番組でしたが、個人的にはこのムーブメントが好きじゃなくてあまり見ませんでした。

 当時感じたのはこのタイトル「ニャンニャン」って大丈夫かな?という感じでした。この少し前に「ニャンニャン」の後に喫煙、みたいなので某アイドルが謹慎となった事件があり、えらくオープンなタイトルだなと感じたものでした。

 

・NTTなどの発足

 電電公社がNTTとなり、専売公社がJTとなったという民営化の動き、当時は公的企業から私企業になったぐらいにしか理解できませんでしたが、その後国鉄がJRになるとも思いませんでした、それとて何がどう変わるのかよく分かってませんでしたが…。

 

・聖輝の結婚

 松田聖子さんと神田正輝さんの結婚が大きな話題になり、「世紀」に掛けてこのように表現されていました。

 わずか10年そこそこで離婚しますが、この結婚時は超人気アイドルと国民的刑事ドラマの中心刑事役で活躍する人気俳優として絶大な人気を誇り、注目度抜群の話題でした。

 その後娘さんの不幸があったり、最近土曜日になる度に神田正輝さんの激やせとか老化が「X」でトレンド入りするのは何か哀しいものがあります。

 

・ユニバーシアード神戸大会

 この年神戸で開催されて、この言葉を初めて知りましたが、学生の為のオリンピックという事で、地元の局がかなり力を入れていたので知ったようなものでした。

 

・「8時だヨ!全員集合」終了

 国民的お笑い番組として多くの小学生たちに支持されたこの番組も、ライバル「オレたちひょうきん族」に追い落とされ、この年9月に16年間の放送に遂に幕を下ろす事となりました。我々の年代は小学生の終り頃に全員集合からひょうきん族へ多く流れ、またこの番組が終わると知って再び全員集合に戻ってきた、そんな感じだったように思います。

 終了後の10月から12月の3ヶ月間は総集編的に放送が続いていましたが、これがとにかく面白くて、この番組が終わるのがとても寂しいと改めて感じたし、改めて自分たちは全員集合で育ったんだな、という事も感じさせられたものでした。

 

・「アップダウンクイズ」終了

 長年司会を務めていた毎日放送アナウンサーの小池清さんの名調子が味のあるクイズ番組で、解答者の乗っているゴンドラが上がったり下がったりもちょっとハラハラしながら見ていたものでした。
 最後の2年間は西郷輝彦さんが司会をしていたと記憶していますが、この時期はドラマやバラエティ、色々なものが終焉を迎えて、時代の移り変わりのようなものを感じました。

 

・「ニュースステーション」スタート

 久米宏さんが「ザ・ベストテン」の司会を降板して、約半年後にこの番組でキャスターとして帰ってきました。

 これまでの平日夜の放送枠を大きく揺さぶる改編となり、「特捜最前線」もこの改編で水曜22時から木曜21時となり、その後視聴率が振るわなくなるという悪影響もあったと個人的には思います。
 しかしこの番組のスタートは、多極のニュース番組に対する扱いや考え方に大きな影響を及ぼしたことも事実で、熾烈なニュース戦争に色んなキャスターを配して、あの手この手で繰り出される事を感じました。

 

・アフタヌーンショー「やらせ」リンチ事件

 お昼の情報番組として20年にもわたって放送されてきた「アフタヌーンショー」。学校から早く帰ってくると時々TVで見かけた番組でした。

 そんなお昼の番組で「やらせ」が行われ、刑事事件にも発展し逮捕者が出て、番組は即刻打ち切りになったというものでした。
この時に「やらせ」という言葉を初めて聞き、覚えました。
 今では軽い感じでも使われるこの言葉でしたが、当時のこの件はそんな軽い感じでは済まないものがありましたね。

 

 

まだ政治の難しい事はよく分からない年頃でしたが、印象的な事件は多かったように思います。

昭和が60年代に突入し、新時代へ入っていく、そんな雰囲気を感じましたし、世の中まだまだ右肩上がりの時代だったので、無茶苦茶なこともあったけど、夢のある時代だったようにも思いました。

 

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2023年9月24日 (日)

生活と世の中と思い出と(1986年④)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。59回目は1986(昭和61)年の第4回です。

前回は当時見たドラマの本放送編でしたが、当時見た再放送のドラマや当時聴いていたラジオについて綴っていきます。

高校に入学した事もあり、それまでの禁を解くように色々とむしろ再放送を中心に見ていました。

 

●ドラマ(再放送)

「必殺仕掛人」

 …当時、新聞で「必殺シリーズが遂に再放送される!」との記事がありました。そのぐらい長い間、再放送がされてなかったという事だったと思います。(ローカル局では再放送されていましたが…)

 当時ハマりかけていた必殺シリーズの初作という事で、再放送を見たくてしかたなかったのですが、当時高校受験の身で、最後の追い込み時期もあり、なかなか見る事はできませんでした。
 やっと見れたのが最後の7,8回くらいでした。緒形拳さんは知っていましたが、おじさんのイメージがあって、こんな若々しい役は初めて見たのと、林与一さんの顔と名前がこの時に初めて一致しました(笑)
 

「必殺仕置人」

 …「必殺仕掛人」の再放送後に放送されました。

 ローカルの「サンテレビ」では前年から放送されていて、個人的に必殺シリーズで初めて見た作品で、これを見てシリーズのフォーマットが理解できました。

 山崎努さんの顔と名前が一致したのがこの作品でしたが、坊主頭だったのでそれまで何となく持っていたイメージとは少し違いました。
 藤田まことさんはCMなどでよく見ていましたが、演技をしている藤田さんを見たのもこの時が初めてでした。ちなみに必殺シリーズに初出演したのも本作からで、しかも藤田さん演じる中村主水は最初は主役ではなかったのは驚きでした。
 そして当時亡くなって日が浅い沖雅也さんが20歳とは思えない貫禄がありつつ、アクションもバリバリでカッコよかったです。
 また初期に主に密偵役で活躍した秋野太作さんは、この当時本名の「津坂匡章」名義でした。

「必殺仕事人」

 …それまで見ていた「仕掛人」「仕置人」は昭和40年代のシリーズ初期作でしたが、こちらは昭和54年の作品で、シリーズとしてかなり定着した時期のものでした。

 シリーズ最長の1年半以上のロングラン放送となりましたが、本放送時は前番組が超低視聴率にあえぎ、シリーズ打切り最終作としてつくったものが、思いがけない大人気作となりました。

 当時「水戸黄門」の格さんだった伊吹吾郎さんが仕事人をしていたなんて知りませんでした。三田村邦彦さんと中条きよしさんのコンビ、のイメージが強くて。そして伊吹さんは劇中で、侍役から坊主頭のおでん屋へと転職します。
 三田村邦彦さんの実質的なデビュー作で、彼の演じる「秀」の成長物語的な要素が特に初期には強く、彼が後に出演する「太陽にほえろ!」の新人刑事のように描かれていました。彼が危なっかしかった初期は波乱に富んで面白かったのですが、後期は人気路線にのった感じて少し個人的には面白みが薄れました。
 当時、「笑点」の座布団運びとして日が浅かった山田隆夫さんが密偵役で出ていたのが意外でした。
 「何でも屋の加代」として仕事人の顔となる鮎川いずみさんが、山田隆夫さん演じる半吉の殉職後に後任的に登場し、当初は口数の少ない美人の元締めと仕事人との橋渡しをする役柄でした。

 高校に入り部活するようになって再放送されましたが、帰りが遅くなり17時からの再放送がなかなか見れず、半分くらい見れたかなという感じでした。
 

「新・必殺仕事人」

 …「必殺仕事人」の大成功を受けて制作された続編で、ここから三田村さんと中条きよしさんの一時代を築いた黄金コンビが始まりました。

 それまでのシリーズは半年前後か1クールが定番で、人気を博した「新・必殺仕置人」だけ41回のロングランでしたが、仕事人が1年半も放送され、その後は藤田まことさんの中村主水が登場する「仕事人」シリーズと、この間をつなぐ1クール作品の繰り返しとなり、本作もシリーズ二番目に長い1年強の間放送されました。

 この作品から、殺しのBGMに前奏?として必殺仕掛人で使用していたものをアレンジするのが定番となり、仕事人では前奏+各主題歌のBGM版というフォーマットに定着しました。これが後にマンネリを生むのですが…

 また本作から「主水○○する」というサブタイトルも仕事人シリーズとしては定着していきます。

 

「必殺仕置屋稼業」

 …ローカルのサンテレビで放送された作品で、「必殺仕置人」の後に再放送され、それまで必殺って「必殺○○人」というタイトルしかないと思ていたのが、他にもいろいろある事を知った端緒になった作品でもありました。

 沖雅也さん演じる孤高の殺し屋「市松」がとにかくカッコいいと評価の高い作品ですが、この役柄がそのまま「太陽にほえろ!」で演じたスコッチ刑事に繋がるなという事を感じます。市松役を終えてから、スコッチ刑事になるまで8ヶ月ぐらいだったと思います。とにかくいつ解体してもおかしくない危なっかしい組織の中で、毎回殺しが行われていたその雰囲気が独特でした。

 昔よく関口宏さんと混同してしまった新克利(あたらし・かつとし)さんはホームドラマで気のいい兄ちゃん的な役柄のイメージがありましたが、ここではすごく豪快な破戒僧・印玄という役柄で、それまで見た役との大きなギャップを感じたものでした。
 最終回はこの印玄の壮絶な死と共に、それまで孤高の市松が「見事な最期だった」と仲間意識を感じさせる発言をし、ラストは捉えられた市松を中村主水が逃がして、逃げ延びた市松が主水から託されたおにぎりを噛むと、カキンと音がして、そこには小判が入っていたという粋なものでした。

 日曜日の昼に再放送していて、これが最も見やすかったのですが、平日夕方の再放送と金曜夜に本放送と、必殺シリーズは当時同時に3作TVで見れる状況でした。ビデオやDVDなどソフト化されていないこの時代に、とてもありがたいものでした。

「助け人走る」

 …上の「必殺仕置屋稼業」の後番組としてサンテレビで再放送されました。

 必殺っぽいなと思いつつ、タイトルが「必殺○○」ではないし、必殺シリーズなのか?しばらく分からないまま見ていました。

 とりあえずフォーマットが必殺シリーズのものだったので、一連のシリーズと思いましたが、「必殺」を真似た殺人事件が実際に起こり、番組タイトルに「必殺」を冠する事をしばらくやめていた、と知ったのはこれから何年も経ってからの事でした。

 この作品は殺し屋役に田村高廣さん、中谷一郎さんと40代以上のコンビが出ていて、アクション要素に寂しさを感じていましたが、途中から宮内洋さん演じる「島帰りの龍」が登場し、イキのいいアクションを見せてくれたので、その寂しさは解消されました。

「噂の刑事トミーとマツ」

 …本放送も見ていましたが、松崎しげるさんの「トミコー」の絶叫でトミーが豹変する以外ちゃんと見ていなかったのもあって、再放送でちゃんと見た格好でした。

 課長役は石立鉄男さんと思っていましたが、初期は林隆三さんだった事をこの時初めて知りました。志穂美悦子さんがトミーこと国広富之さんの姉役で出ていたのも、この再放送で初めて知りました。

 中三の受験追い込みで、親から見ないように言われていましたが、抵抗して見てました(笑) 翌日学校帰りに友達と昨日見た「トミマツ」について話すのも楽しみでした。

「俺たちの勲章」

 …1984(昭和59)年に朝日放送で再放送を初めて見ましたが、この時はサンテレビでの再放送でした。

 その後は毎日放送で再放送されたり、系列のよみうりテレビでは再放送を見たことがなく、不思議なくらいこれ以外の局でばかり再放送されていました。

 この時、すごく見たかったのですが、高校からの帰りに間に合わず1回しか見れず、1984年について触れる際に改めて書きます。

「トリプル捜査線」

 …あまり詳しい情報がいまだに載っていませんが、大和田伸也さんが主演で、一郎と二郎という双子の刑事を二役で演じていました。

 これ以外は川津祐介さんや長門勇さんがキャスト紹介に出ていたぐらいの記憶にあるぐらいで、もう一回見てみたいですが…

「特捜記者」

 …近藤正臣さんが主演した事件記者モノで、松山英太郎さん、谷啓さん、小野進也さんが出ていたかな、と…これも記憶の薄いドラマです。

「江戸の牙」

 …天知茂さん主演の隠密モノで、「江戸の牙参上!」と天知さんが啖呵を切るシーンが印象的で、音楽も時代劇にしては斬新な印象がありました。メンバーに坂上二郎さんや藤村俊二さんなどコメディリリーフ系が多かったのも印象的でした。

「俺たちの朝」

 …前年サンテレビで「俺たちの旅」が再放送され、約1年後に放送されました。

 勝野洋さんが「太陽にほえろ!」のテキサス刑事役で壮絶な殉職を遂げて卒業し、一本立ちした初主演作でした。

 なのでテキサス感丸出しの勝野さんによる青春ドラマでした。「俺たちの旅」から秋野太作さん、森川正太さんがスピンオフし、秋野さんはそれまで本名を平仮名にした「津坂まさあき」名義でしたが、本作の役名がそのまま芸名になりました。
 相棒に小倉一郎さん、「俺たちの旅」でいう田中健さんのオメダのポジションでしたが、ちょっと線が細くて、ヒロインに長谷直美さんが配されました。

 末期に、デビュー間もない柴田恭兵さんが複数回ゲスト出演していました。

「西部警察」

 …本放送から見ていましたが途中からだったので、初期はほとんど見れていませんでした。

 1983(昭和58)年に一度再放送していましたが、これが全然見れずに3年ぶりに再放送してくれて、ある程度は見れました。
 この年に買ってもらったラジカセで「録音」した回もありました(笑)

 初期と、後に人気定着した頃との作風が全然違っていて、初期は結構ラフでした。

「非情のライセンス」

 …天知茂さん主演の刑事ドラマで、彼の代表作となりましたが、サンテレビで再放送されたのはおそらく第二シリーズの前半のみだったと思います。天知さんはこの前年に急死されて、この再放送を見た時に顔と名前が初めて一致しました。

「気まぐれ天使」

 …石立鉄男さん主演のホームドラマでいわゆる「石立ドラマ」の後期作品です。
 この番組の途中ぐらいまでカーリーヘアの長髪だったように記憶しています。

 ヒロインが初期は大原麗子さんでしたが、いつの間にか酒井和歌子さんになっていて、後輩の「エノ」こと榎本は森田健作さんが演じていましたが、後輩に「エノ!」と叫ぶシーンは、「教師びんびん物語」で違うコンビにて再び目にする事となりました。
 酒井和歌子さんがバイクを颯爽と乗り回す若い美人部長を演じていたのが印象的でした。

「気まぐれ本格派」

 …「気まぐれ天使」の後番組で、一連の「石立ドラマ」の最終作になります。
 この時の石立さんは長髪ではなく、チリチリのカーリーヘアは残ったものの、大映ドラマで活躍する頃の髪型になりました。
 弟役に秋野太作さんが扮し、いずれも二枚目半のキャラがぶつかりハチャメチャなケンカをするシーンが多くありました。

▼1986年11月14日のTV欄(関西版)

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●ラジオ

「奈保子のときめきトワイライト」

 …「三菱ドライビングポップス」と冠される形の一連のラジオ番組で、何年間に一度パーソナリティーが代替わりしていくものですが、この年から河合奈保子さんが担当し、約4年間放送されました。
 それまで一貫して「○○(パーソナリティー)と歌おう」という番組タイトルでしたが、この番組からその定型が崩れました。

 前番組からの流れで、平日は10分のミニ番組で日曜日は「SUNDAY PARTY」として30分の拡大版が放送されていました。日曜は時々、公開録音もあってライブが放送されていたこともありました。

「理恵と歌おう」

 …「奈保子のときめきトワイライト」の前番組で、中原理恵さんが1982(昭和57)年から担当していて、1983(昭和58)年から聴き始めました。
 構成はやはり平日10分、日曜30分でした。バラエティで名をはせた中原理恵さんの軽妙なトークは毎回面白く、日々の楽しみで中学時代は特に聴いていました。高校に上がってから聴かなくなってしまいましたが、いつの間にか奈保子さんに代わっていました。

「世良公則ちょっとイカした005」

 …「世良公則ちょっとイカした10 o'clock」という日曜朝10時からのラジオが1985(昭和60)年に深夜枠へ移行し、深夜0時05分からの放送でこのタイトルになりました。朝から深夜へ移行し、カラーもだいぶ変わってしまって、また世良さんの曲調がロック解禁といわんばかりに、それまでのシティポップス的な路線から急速にロック化したのもあったと思います。
 1年間放送され、この年に終了しました。

「中村雅俊のまあまあホリデー」

 …「中村雅俊のサンデースケッチ」という中村雅俊さんパーサナリティーラジオの後番組で、この4月から1年間放送され、その後「中村雅俊のまかせてホリデー」へと再びタイトル変更となり、同じ時間枠で度々タイトルが変わっていました。この3つの中で最も印象の薄いタイトルでした、あまり聴いていなかったのかもしれません…

 

2023年9月11日 (月)

生活と世の中と思い出と(1986年③)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。58回目は1986(昭和61)年の第3回です。

当時見たドラマに関する想い出などを綴っていきます。

 

●ドラマ(本放送)

「太陽にほえろ!」

 …これについては前記事以前から色々書いていますが、この年の11月14日、718回の放送をもって終了しました。

  刑事ドラマの金字塔といえば「特別機動捜査隊」という刑事ドラマが801回という放送回数を記録し、また関西ローカルの30分ものですが「部長刑事」という刑事ドラマは1600回くらい放送されましたが、これらは主役をはじめキャストが総入替えになって回を重ねたものであり、「石原裕次郎」という1人の俳優が一貫して主役を演じて回を重ねられてきた刑事ドラマとしては日本一の回数を誇りました。

終了が決まったのは夏以降だったと思いますが、86年当初は裕次郎さんも出演していました。

しかし4月に長年、裕次郎さんの片腕、後年は補佐役としてボス代行すら務めていた「山さん」(露口茂さん)が殉職しました。当初は殉職なのか栄転なのか色々あったようで、結局は殉職の形で去ると決まり、2時間スペシャルで放送されました。

事件は解決し、特に危ない場面も見られなかったのですが…、、最後の最後で叩き潰された組織の残党が「報復」の形で山さんに襲い掛かり、相討ちの形となりました。相討ちの時、犯人は即死で山さんはスタスタと階段を駆け上がっていったので大丈夫だ、と思っていましたが、ボスに報告の電話を入れる時に血が流れ意識を失い…、そして最後の力で本当の父親に引き渡すことになった育ての子へ電話…「お父さんだ」と…。山さんも刑事の前にお父さんなんだな…と。電話を切った後、息子のもとへ帰ろうと2、3歩進んだところで倒れ…
後はボスが暗い一係室内で「山さんが…死んだ…」というだけで終わり、他の刑事の反応も後日談も何もない、番組史上最後の殉職劇となりました。新刑事として、誰かベテランの重鎮が来るのかと思ったら、それもなしでただただ虚無感でした。

その2ヶ月後、700回の節目を迎えながら、この回から裕次郎さんが休演となり、前回ボス不在時(1981年)に代行主演した露口さんも不在だったので、新聞のテレビ欄は「神田正輝 地井武男…」となっていて、キャストの序列上は神田正輝さんが主演の扱いになっていた期間が2ヶ月ほどありました。

8月からは、ナント渡哲也さんがボス代行の「警部」として主演の座に就きました。またこの回には新人刑事「DJ」として西山浩司さんが加入し、それまでの「太陽ー」になかった、小柄でアクションのできるキャラクターとして活躍しましたが、渡さんとの同時登場で見せ場が半減し、更に活躍機会が少ないままに終わってしまいました。

この2人の加入でまさに「太陽-」新時代の到来で、テーマ曲も今時のアレンジに打込みの画像処理に、これから第2章が始まるんだ、そんな気分でした。

が、裕次郎さんの病状が思わしくなく復帰が難しい、との判断から、最終回を制作し、「ケジメ」としてこの回のみに出演し、有終の美を飾る、という事になりました。最初で最後の「太陽にほえろ!」における裕次郎さんと渡さんの共演でした。そして裕次郎さんがノーカットで「命の重さを語る」7分間のシーン、かつての部下の殉職シーンを織り交ぜながら、胸いっぱいにならずにはいられませんでしたね。

「太陽にほえろ!PART2」

 …「太陽にほえろ!」が遂に終了し、1クール12回だけ制作された続編で、裕次郎さんの藤堂係長は新たな任を受け「栄転」した設定となり、代わって女性ボスとして奈良岡朋子さんが登場、そして番組スタートから唯一の生き残りでベテランの「長さん」(下川辰平さん)が4年ぶりに現場に復帰し、更には寺尾聰さんが中堅刑事として加入しました。他の刑事は全員前作より継続出演でした。

翌1987年2月まで放送され、ここで完全に「太陽ー」の歴史は終了しました。

「特捜最前線」

 …1月から12月まで「通し」で放送された最後の年でした。

あまり見てませんでしたが、当時のTVガイドの「今日のCLOSE UP」的な欄に「藤岡弘」(「藤岡弘、」ではない)さんの写真と紹介が載っていたのを覚えています。「ちょっと危険な香りの漂う櫻井刑事役」みたいな感じで。

「あぶない刑事」

 …前番組「誇りの報酬」が好評にて半年から1年に延長され、10月にスタートしました。基本は「誇りの報酬」をプロットにした「バディ刑事もの」ですが、翌87年に入ってから彼らの衣装のオシャレ具合が急激に注目され、その後30年経っても映画化されるほどの超人気作になるなんて、この時誰が予想したでしょうか??当初は横浜を舞台にした「プロハンター」とか、同じ制作会社による「探偵物語」のような、ちょっとアウトロー系の雰囲気の漂う刑事ドラマに過ぎなかったのに…、、トレンドとか時代の流れに乗る、とかいうのはあるもんですね。

「私鉄沿線97分署」

 …1984(昭和59)年から放送されてきた人気刑事ドラマですが、この9月に2年間の放送を終えました。

年の初めにベテランの倉さんこと倉田刑事(高橋長英さん)が転出し、橘刑事(山口果林さん)が登場しました。
そして第2章の主人公的キャラから少し存在感が…となってきた九十九刑事(新沼謙治さん)が刑事を退職し、第3章のキーマン的刑事に古尾谷雅人さん演じる本庄刑事が登場しました。

古尾谷さんに代わっても人情路線は変わらず、終盤になって彼と斉藤慶子さん演じる仁科刑事の恋模様が描かれ、最終回は彼らのゴールインと、それまでの仮庁舎から「本庁舎」への移転という形で幕引きとなりました。

「京都かるがも病院」  

 …高橋英樹さん主演で4年間人気を博した「遠山の金さん」の

 

「花いちばん」

 …大阪「よみうりテレビ」制作の朝の連続帯ドラマの第一弾として放送されました。

主演は池まり子さんということで「誰?」となりましたが、実は当時から知ってる方でした。この3年前に、渡辺徹さんが初主演した映画「夜明けのランナー」で徹さんの恋人役をしていた実質ヒロインの美池真理子さんの事でした。

「必殺仕事人Ⅴ・激闘編」

 …前年1985年からスタートしていましたが、その時はほとんど見れず、7月に放送された最終回で生まれて初めて「リアルで必殺シリーズの最終回を見た」のでした。高校生になったばかりで、夜10時からのテレビを見るなんていうのは親が…という事もあったのですが、この頃あたりから少しですが、22時台のテレビを見るようになりました。

 当時、春先に局の番組対抗のボウリング大会があって、「必殺仕事人Ⅴ激闘編」チームとして何人か出ていて、「柴俊夫さんが髪伸ばしてる」となりました。それまで柴さんといえば「西部警察」時代までずっと角刈りの印象だったので。また、柴さんといえば当時の出演に絡んでか阪神戦のナイターにゲスト出演していたことがあり、この「必殺仕事人」の見どころなども語っていました。

 そしてこの作品のキャストは3作目の必殺映画「必殺!Ⅲ 裏か表か」 にも出演しました。一応ドラマでは、映画より後に彼らは別れていて、パラレルワールドのようになっていましたが、映画では柴さん演じる「壱」は死闘の末に、笑福亭鶴瓶さんの「参」は必殺史上悲惨ななぶり殺しの末、首まで取られ、そして京本政樹さんの「組紐屋の竜」までもが壮絶な殉職を遂げ、必殺史上最もハードな映画となりました。まさか、京本さんがドラマ2作で降板となったのが意外でした。

村上弘明さんは前作「花屋の政」でしたが、前作最終回で身元がばれたので今作から「鍛冶屋の政」となり以後定着します。

「必殺まっしぐら!」

 …必殺仕事人のシリーズで三田村邦彦さんが演じていた「飾り職人の秀」が、一本立ちして主役を張った番組です。

 1クールの放送で、初めて三田村さんが必殺シリーズで主演した作品であり、「必殺仕事人Ⅳ」の最終回である1984年8月を最後に「卒業」していましたが、先述の映画「必殺!Ⅲ 裏か表か」で2年ぶりに秀役として帰ってきて、また本作の主演に繋がりました。

25歳で「必殺仕事人」のレギュラーとなり、以後5年以上活躍を続け、2年のブランクを経て復帰した三田村さんはこの時32歳になっていましたが、大人になった「秀」がそこにはいて、大人の風格とアクションができる身体の動き具合と丁度いい感じだったように思いました。その後1991年に「必殺仕事人・激突!」に出演しますが、当時38歳でアクションはちょっと厳しいなと感じました。走りが遅くなってて。。

本作は秋野暢子さんや笑福亭鶴瓶さんが殺し屋役として参加し、鶴瓶さんは前作「必殺仕事人Ⅴ・激闘編」にも出ていましたが、本編にあまり出ないまま映画で殉職しながら、ここでまた別の役で継続出演となりました。

更には槍の使い手・香車東吉として西郷輝彦さんが重厚にして飄々とした演技で締めていました。元締役は睦五朗さんでしたが、これが最後には悪役に変身して鎌を死ぬほど投げつけるのにはビックリしました。当時流行のマリオブラザーズを下敷きにしたストーリー展開が面白かったです。元締と秀のつなぎを取る若者役として翌年光GENJIとしてデビューする大沢樹生さんが出ていました。

「必殺仕事人Ⅴ・旋風編」

 …「ー激闘編」から3ヶ月後「ーまっしぐら」を挟んでの中村主水(藤田まことさん)再登場となりました。

「激闘編」のメンバーが多く映画で殉死したこともあり、殺し屋メンバーと藤田さんの主水と村上弘明さんの「鍛冶屋の政」だけで、出門英さんが「夜鶴の銀平」として登場しましたが、なんで若手じゃなくてベテランの出門さんなんだろう?と思ったものでした。結局出門さんも多忙で降板せざるを得なくなり、劇中で殉死する事となります。

それまで調査役で長年活躍した何でも屋の加代(鮎川いずみさん)も降板となり、かとうかずこさんが「便利屋お玉」として登場しました。また「必殺仕事人Ⅴ」の最終回を最後に卒業していた?ひかる一平さんの「西順之助」が2作ぶりに復帰、立派な殺し屋役として活躍しましたが、彼もまた出門さんと共に降板します。

この作品ではサブタイトルに当時の流行りもののカタカナフレーズを入れるのが通例となっていました。
「りつ、ハウスマヌカンになる」「主水、バースになる」とか(笑) 「主水、ワープロを打つ」のラストではホントに主水さんがワープロを打っているシーンが出てきて、取って付けた感丸出しでしたが、無理やりにでもカタカナ物に結びつけようという感じでした。

「ザ・ハングマンⅤ」

 …ハングマン5作目にして、「主婦がパートでハングマンをやる」という超異色作で、山本陽子さんが主演しました。
次の「ザ・ハングマン6」までで、名高達男さんが出演していない唯一の作品でもありました。

前作「ザ・ハングマンⅣ」より佐藤浩市さんが違う役ながら継続出演しており、名高さんから佐藤さんがハングマン俳優として築いていくのかな?的なことを当時感じていました。

火野正平さんがハングマン役というのがまた意外でしたが、「エジソン」のコードネームでいろんなものを作る役柄でした。

「男女7人夏物語」

 …明石家さんまさんが主演し、大竹しのぶさんと結婚することになった作品で、トレンディードラマのはしりともいえる作品で、他にも片岡鶴太郎さん、賀来千香子さん、池上季実子さん、奥田瑛二さんなど豪華すぎるキャストも話題になり、主題歌石井明美さんの「CHA-CHA-CHA」も大ヒットし、様々な方面へ影響を及ぼした作品でした。

「春風一番」

 …当時かなり太っていることをウリにもしていた渡辺徹さんが、元力士役で主演したドラマです。
当時、徹さんの主演ドラマには必ず明石家さんまさんが助演していましたが、この作品で3作連続の共演となりました。
先の「男女7人…」で主演に躍り出る前のさんまさん、もっと自由な演技をしていたような印象でした。

「金曜日には花を買って」

 …前年「金曜日の妻たちへⅢ」が放送され、「金妻」もひと段落したところで放送された「金花」でした。
やはりちょっと大人の恋模様が描かれ、主演の篠ひろ子さんに世良公則さんが求愛するシーンはチラッと覚えています。

「どうぶつ通り夢ランド」

 …2年間放送された「私鉄沿線97分署」の後番組で、「西部警察」から続いた刑事ドラマ枠は一旦ここで途切れました。

動物センターを舞台に、動物と人々との交流を描くドラマで、主演の古谷一行さんは「セン長」(センター長の意)と呼ばれる動物好きの温かい男を演じていました。同年代の蟹江敬三さんは「事務長」で施設の経営を任され立場上、渋ちんぶりを見せこの親友役のこの2人が対象的でした。古谷さんのフォロワー的な動物研究家に三田村邦彦さんが扮していました。また小西博之さんは前番組「-97分署」スタート当初からの継続出演で、このドラマ枠に2年半出演していました。

当時三田村さんは、かつて自身が出演した「太陽にほえろ!」終了に際してコメントを残していますが、下の写真の左下で、この「どうぶつ通り夢ランド」の衣装と思われる服装で写真にうつっていました。

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他にもチラッと見た程度の作品はありますが、誰が出ていたぐらいしか覚えていないので、ここで終わりとさせていただきます。

この年には再放送で初見だった番組も少なからずあるので、次はそこを触れてみたいと思います。

 

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2023年9月 6日 (水)

生活と思い出と世の中と(1986年②)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。57回目は1986(昭和61)年の第2回です。

当時のニュースと自分の生活との絡みで綴っていきます。

 

●ニュース

バブル景気が始まったのがこの年からとされています。

・泉 重千代さん死去

 120歳のという長寿で、我々が子供時代から日本はおろか、世界で「最も長寿の人」として認知していました。

 昔、中原理恵さんがラジオで「いずみしげ ちよ」さんと言っていて、後で振り返って大爆笑していた事がありましたが、とにかく長寿といえばこの人!という方でした。この当時で120歳というと「江戸時代生まれ」な訳です。

 すごいなと思っていましたが、後年、当時の徳之島の戸籍がいい加減で、誕生時期がかなり曖昧という話が出たり、どうなんだろう?と思うようになり、ギネス記録も取り消されたとかなんとか聞きました。

 

・男女雇用機会均等法の施行

 女性の社会進出、という事が顕著になってきて、この翌年には女性の「業界モノ」ドラマが多数制作されましたが、この年でもドラマ「誇りの報酬」中村雅俊さん、根津甚八さんの2人の刑事が先陣切って突っ込むところを、伊藤蘭さん演じる女性刑事が続いて入っていき「男女雇用機会均等法、知らないな?」的なことを呟いていたのを覚えています。そんな時代になったんだなと。

・岡田有希子さん自殺

 これは前の記事にも書きましたが、忘れもしない高校の入学式を終えて家に帰ってきたら、この衝撃的すぎるニュースが入ってきました。

 18歳の人気絶頂アイドルの自殺は、後追い自殺が続く社会現象にもなるほど、影響力の大きな出来事でした。

・フジテレビの目玉マークの使用

 バレーボールのバボちゃんなんかが象徴的でしたが、当時のフジといえばこの「目玉」でしたね。

・「世界・ふしぎ発見」放送開始

 いまだに続いているこの番組、司会者も変わっていないところもまたすごいですね。草野仁さん、このちょっと前まではNHKのアナウンサーで、ロス五輪の結果を伝えたりしていたのを見てましたが…。

・ジャイアントパンダ、トントン誕生

 ホアンホアンとフェイフェイの間に生まれたジャイアントパンダで、この前年に生まれた「待望の」パンダが、ホアンホアンの下敷きになり、わずか数日で死んでしまい、失意の中にありましたが、次の年に見事成功となりました。

・甲斐バンド解散

 これ当時リアルでは知らなくて、数年前に解散の噂が出て解散していたのかなと思っていましたが、この年でした。

 1974(昭和49)年から12年間、フォークからロックに変わりゆく時代に、ロックの旗手的存在としてシーンを引っ張ってきていました。

 ここで初回の解散をしますが、その後再結成・解散を繰り返す事となります。

・衆参ダブル選挙

 衆議院と参議院の同日選挙として盛り上がりました。西川きよし氏の「小さな事からコツコツと…」とか、選挙後に社会党の女性党首となった土井たか子氏の「やるっきゃない」とかこの時の政界のフレーズは色々出てきました。選挙は自民党の「地滑り的圧勝」と言われ、翌日の選挙速報を高校から帰ってずって見ていました。

・新自由クラブ解散

 少数政党として渋い存在だった「新自由クラブ」というものが、かつてありました。新自クと社民連はいつも党員が数名でしたが、何とか議席をキープすると、「よくやった」感があったものでした。多くの議員が自民党へ戻ったというのが個人的には少々ガッカリでした。

・聖・輝の子ども誕生

 前年結婚した松田聖子さん、神田正輝さんの待望の子どもが誕生し、ワイドショーの話題を席巻しました。後の神田沙也加さんですが、まさか今もう御存命でないなんて…悲しい事です。

・ミュージックステーション、放送開始

 これまた今も続く長寿番組ですが、当初の司会はタモリさんではなく関口宏さんでした。すぐに代わったのでタモリさんのイメージが強いと思いますが。

・シートベルト着用義務化

 今でこそ全く当たり前で、自分が教習所に通っていた時も当然のようにされていましたが、昔の刑事ドラマなんか見てると、シートベルトをして車を運転するシーンが殆どなく、車を止めたらすぐ刑事たちは降りてくるし、事故に遭えば社外に投げ出されたり、シートベルトをしてる描写が殆どなかったな…と改めて感じます。

・「太陽にほえろ!」終了

 個人的に毎週金曜夜8時に楽しみにしていたこの番組が、遂に14年4ヶ月の放送に幕を下ろしました。
 前の記事にも書きましたので割愛しますが、その次に「PART2」が3ヶ月だけながら放送を続てくれたのだけは良かったなと思いました。

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・三原山噴火

 その「太陽にほえろ!PART2」の第1話は、「太陽にほえろ!」最終回の翌週に放送されるはずでしたが、この噴火の為に緊急特番となり、1週間放送が遅れました。そしてこの噴火では、伊豆大島の島民が全員島外へ避難する事態となりました。

・フライデー襲撃事件

 ビートたけしさんがたけし軍団を引き連れて、当時脅威の対象であった写真週刊誌「フライデー」の編集部へ押しかけ、暴行を働いたという事で世間を騒がせました。当時は「フォーカス」と共に二大写真週刊誌「F・F」と言われ、芸能人たちは写真を撮られる事を恐れていました。今ならSNSでしょうが、そういうものがなかったこの時代は芸能リポーターや写真週刊誌というのが、驚異の対象でした。

・余部鉄橋転落事故

 兵庫県北部の「餘部鉄橋」から回送列車が転落し、計6人が死亡した惨事でした。回送列車だったので、乗客はいませんでしたが、余部鉄橋は、高さが40m以上ある高所を走っており、車掌さんが亡くなられ、また真下は工場であり、ここへ直撃して、従業員5人が亡くなられています。折しも国鉄がJRになる3ヶ月前の出来事でした。遠くですが、個人的に県内なのでそれはもう驚きではありました。

・チャレンジャー爆発事故

 スペースシャトル「チャレンジャー」が、打ちあがったと思ったら、わずか1分余りで分解し、乗組員7名全員が死亡した惨事が起こりました。リアルでTVで見てましたが、まさかというぐらいあっという間の分解でした

・チェルノブイリ原発事故

 当時はソ連といっていましたが、今のロシアとウクライナで起こった原発事故で、放射能漏れがかなりの大規模という事で震撼した事故でした。当時は対岸の火事みたいな感じで見ていましたが、その約25年後福島で同様の事が起こってしまうとは…。

・ハレー彗星の大接近

 76年に一度やってくるという、ハレー彗星の大接近という事で話題になりました。
 今度来てももう生きてないな、と16歳の当時思っていましたが、今この時点でようやく半分の38年目を迎えているところです。

・紅白の「仮面ライダー」

 この年の最後に衝撃だったのはこの事件でした。

 NHK紅白歌合戦で、この年ブレイクした少年隊が「仮面舞踏会」を歌いにいくところ、司会の加山雄三氏が「少年隊!仮面ーライダーーーー!」と高らかに叫んでいて、「????」しかありませんでした。一瞬すごい冗談入れてきたのかな?「じゃなくて、仮面舞踏会ーー!」と言うのかなと思えど、全く気配がなく、それが「マジ」であった事に甚だビックリしました。

 

おかげさまで無事に楽しく?過ごせた1986年でした。

 

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2023年8月29日 (火)

生活と思い出と世の中と(1986年①)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。56回目は1986(昭和61)年の第1回です。

高校1年の年でしたが、3月までは中学生でした。

そんな時代の出来事と当時の文化などについて触れていきたいと思います。

 

●中三時代

1月から3月まで中学生、中学三年生でした。

高校受験の追い込みで、とにかく遅くまで勉強してました。毎晩1時過ぎまでやってたでしょうか。

親から支給された肉まんとコーヒーを「夜食」として飲食する時間が「至福」でした。

部屋から窓の外を時々見て気分転換しながら…この高校受験の時が多分、他よりもずっと勉強したように思います。

大学受験はもっと緩かった気がするし、中学受験もしましたが、ここまで自分からしなかったなという感じで。

どうしてもこの高校受かりたい、という気持ちが強かったですね。もっとも倍率の低い高校受験で、最も頑張っていたと思います。

なので、学校から帰ってドラマの再放送なんか見てたら親に注意されていました。「そんなもんいつでも見れる」と(いや、見れんけど…うちビデオなかったし、って感じでしたが)

うちの中学は、定期テストがあると全教科の点数を合計し、上から30人ずつA、B…とランク判定する方式で、この中3の時、BかCがほとんどでしたが、最後の定期テストの時に親が「A取ったら小遣いあげる」と、その言葉に釣られて最後の最後に「A」が取れました。中学3年間で唯一の「A」でした。

でも、その再放送のドラマを見ては、次の日帰りに友達とその話で盛り上がってたので、見て良かったなと勝手に思っていました。(娯楽の選択肢の少ない時代だったので…)

1月は横綱・隆の里が引退しました。糖尿病を克服し30歳を越えて横綱になった「おしん横綱」と言われた力士、引退後鳴門親方となり指導していましたが、59歳で早世することとなります。

この時期、生涯で唯一の「しもやけ」に罹りました。後にも先にもありませんが、受験勉強しないとの時に指が痒すぎて鉛筆も持てなかったのを覚えています。最近しもやけにかかる人、聞いた事がないですね。

2月にいわゆる「すべり止め」的に某私立の高校を受験しました。筆記テストもありましたが、その高校は当時男子校(現在は共学)で、野球の名門校ですが、「50m走」が入試の中にありました。これはたぶん走れるかのチェック程度のものだったと思いますが…。

程なく、合格通知が届き、とりあえずこれで高校へ進学はできるようになりました。学校を受験して初の合格通知でした。しかしあくまで公立へ行かねば…です。

本命の(公立)志望校へ願書出したのかな?覚えてないけどそうなんでしょうね…、そして3月13日?中学校の卒業式がありました。

その足で、友達と家に帰って、うちの部屋でダベってたのか、これもどう過ごしたか忘れました。。

卒業式の翌々日が公立高校の受験日、受験番号が155と足したら11になる「インケツ」番号でイヤだなと思っていました(笑)

そして現地(高校)へ受けに行きました。「これが高校か!」と教室を見て思いましたね(笑)

感触は微妙でしたが、数日後ドキドキしながらまた高校まで出てきました。

中学までは、基本校区内での生活でしたが、高校は市の中心まで行くわけで、バスで20分+徒歩で15分くらいかけていきました。

自分の受験番号は…

ありました!!

合格!

希望通りの高校に行くことができる、その時はそれだけでした。

合格後、再度高校へ行って支給品をもらったりしてましたが、その中で入学前の「宿題」がドッサリあって、英語や数学など色々ドリルで勉強しました。

春休みに中三のクラスで最後の会がありました。中学って制服なので、みんなの私服なかなか見ませんでしたが、中学を出るという事で背伸びした服装の面々もいくらかありました。今は亡きボウリング場へ行って、この時代はボウリングがまだまだ遊びの主流で、逆にカラオケボックスなんてまだそんなに普及していなかった時代でした。

帰りに雨が降って、傘忘れて自転車で濡れて帰ってたら、両サイドからクラスの面々が自転車で横につけて傘をさしてくれたのが嬉しかったし、いまだにハッキリ覚えてます。あんまり人から優しくされた記憶がないもので(笑)

それと、高校に行くにあたり色々もらったりしました。

まずは通学用のスポーツサイクルを買ってもらいました。当時はスポークの部分にギアシフトのレバーがあって、今の自転車にはないフォルムでした。

それから、待望の「TVチューナー付Wラジカセ」を買ってもらいました。

今の時代には通じない言葉なので説明すると、ラジオにWカセット(カセットテープから別のカセットテープへ録音できる)がつき、更にはTVも聞ける(見れませんが「音」だけ聞ける)という、当時の自分の中では画期的でした。部屋にTVがなくて、TVを見るには1Fへ降りて親のいるところへ行かなければ…だったので「自分の部屋でTVの音が聴ける」のが画期的すぎました。といっても全局聴ける訳でなく、3局ぐらいだったと思いますが…、親から「見てはいけない」とされた、ちょっとオトナの?番組も自部屋で「聴いて」たりしました。。

あとは…当時もらったお年玉等を集めて、高校3年間定期預金に預けていました。

今だと「定期預金??」となると思います、利率が0.03%だかでほとんど利息なんてつかないと思いますが、当時は3%からはつくような利率だったので、3年間寝かせたらまあまあの額になった訳です。

 

●高一時代

4月8日、高校の入学式を迎えました。

母が妹の中学入学式に行ってたので、珍しく父親と行きました。

思えばこの父と2人で行動したのは、これが最後だったかもしれません。高校に入ってからあまり喋らなくなって、高校出てからは自分が実家を出たので、ほぼなかったですね…。

昼ご飯をどこかの店で食べましたが、当時「新伍のおまちどうさま」という山城新伍さん司会のバラエティーがやっていたのを覚えています。この1年後にこの番組の本番中に漫才師の春日照代師匠が倒れてそのまま帰らぬ人となりました。

そしてこの日、衝撃的なニュースが入ってきました、、

岡田有希子さんが自殺した、というのです。

まさに旬の売れっ子アイドルの自殺はあまりに衝撃で、後追い自殺する方も…という感じで社会的な影響があったのを高校生的に感じていました。

それから高校生活が始まりますが、自転車で30分くらいかけて、中学時代の同級生と3人で自転車こいで行ってました。これがなかなかハードで、スピード的についていくのも最初はつらかったですね。距離はあるし歩道は狭いし、坂道はあるし…で。そして通学途中での「パンク」がまた痛かったです。遅刻につながるし、お金もかかるしで…。高校3年間で何回パンクしたやら…という感じです。

そう、高校に入って初めて「詰め襟」の学生服を着ました。中学では、市内でも珍しい「ブレザー」だったので、中学の制服で高校受験した時は、めちゃくちゃ浮いてました。

4月11日、高校入学して間もない頃「太陽にほえろ!」で山さん(露口茂さん)が殉職しました。まさか、山さんが死ぬの…??でしたが、後任がなく、その後程なくボスの石原裕次郎さんが再度欠場となり、番組は寂しくなっていくばかりだった覚えがあります。

中学時代は坊主頭を強いられていて、高校からは髪を伸ばしてよくなったので、しばらくは伸ばしながら、散髪へ行くときに「どうオーダーしよう?」と悩んだものでした。

そして髪を伸ばすと、髪に色んなものをベタベタつけるようになりました。母が化粧品販売員だったので、そういうものには事欠かず、ムースにジェルをつけるという訳の分からないことをやってました。ジェルをつけてベタベタにしながらドライヤーで固めたり、ある時期からはキッチリ髪型が決まるようになり、とにかく時間をかけて髪はよくいじってましたね(笑) 髪が多くあった頃は(笑)

4月も終わりの頃、部活に入りました。硬式テニス部。

中学で運動部入ってませんでしたが、テニスならやれそうかな、と思って。

しかしこれが結構ハードでした。

8月になるまでラケットも満足に持てず、部員が多かったので「整理」されるためか過酷な運動を強いられました。まず毎日外周を10周、約5kmは走りました。雨の日はなくなる代わりに廊下をぐるっと走る「廊練(ローレン)」というのをやっていました。これも結構走りましたが、5kmと比べると優しいもんで、毎日のように雨が降るのを祈ってました(笑)

寝ながら足だけ上げる「足上げ」もキツかったです。30度とか45度とか…。毎日往復1時間自転車こいで、5km走って、体育が週に4時間、人生で最も運動した時期でした。食欲もビックリするほどあった割に全然太らないから不思議でした、今では考えられませんが…。

部活でいうと、山の階段を上り下りしたのもハードでした。何百段あるんだ?というぐらいの長い階段をのぼり、降りる時は膝がガクガクでかつ、急斜面で落ちる怖さと闘いながら降りてました。降りる時の方が遥かに怖かったですね。

ちなみにその山とは、これです↓

男山 (兵庫県) - Wikipedia

 

勉強だと「チャート式」という学校支給の参考書で数学は勉強して、問題を解きまくって覚えていった記憶があります。数学はできたけど、理科ができなさ過ぎて結局文系へ進んだんですが…。しかし「チャート式」がいまだに存在する事にビックリしました。

英語はリーダーとグラマーとに分かれ、グラマーって最初、文法の事と知らず「なんでおじさん(うちの担任)が教えてるんだろう?」と思っていました。高校の英語って、とにかく頻繁に辞書引いたのを覚えてます。

理科は嫌いだった物理・化学がもっと嫌いになり、生物しかムリかなと思い、これが翌年の教科選択にそのままつながりました。

社会は「現代社会」が面白かったです、「高校」で勉強してるなという事をすごく感じました。

美術と音楽に分かれてて、どっちも苦手でしたが、美術を選択、ただの暇つぶし時間でしたが、生まれて初めて「油絵」というものを描き、キャンバスというものを使いました。

高校での成績はハッキリ覚えてませんが、真ん中よりちょっと下ぐらいでしょうか。高校が偏差値ごとにほぼ決まってたので、中学のようにはいきませんでした。。

夏休み突入期ぐらいに高校で「キャンプ合宿」へ行きました。ロッジ?に泊まって、一部屋10何人すし詰めで寝て…

夏休みは、部活でテニスしてました。学期中と違って時間がかけられて練習もだいぶできました。その頃になると特訓もされなくなって、ラケット持って打てるようにもなったので、ようやく「テニスしてる」感が出てきました。それまではただの「体力づくり」という名のしごきでした。

秋、11月の初めに新人戦というテニスの試合があり、これが初試合でした。しかしここにも「部員整理」の罠があり、1ゲーム6コロ(0-6)で1回戦負けたら「丸坊主」と先輩から言い渡されました。髪を伸ばし始めた頃に丸坊主にするというのは、ある意味での「退部勧告」のようなものでした。自分はその0-6で負けました…、ただし2回戦で。1回戦が不戦勝だったので超微妙なところでしたが、何とか免除となり髪を伸ばしたまま部活を続けることができました。が、いかにも昭和ですね。。今でもこういう話はあるんでしょうか??

11月、「太陽にほえろ!」が終了しました。

小学生の頃から毎週金曜夜8時の大きな楽しみが…。その後3ヶ月は「PART2」として放送されましたが、石原裕次郎さんのボスは登場せず、11月14日の最終回、それまで5ヶ月ほど欠場し、2、3ヶ月ほど、地井武男さん。神田正輝さんを中心に、誰が主役かもよく分からない状態が続き、8月に渡哲也さんが「警部」として係長代行で主演するようになってからは、視聴率も回復しましたが、裕次郎さんの万全な状態になる事が望めないとされ、番組は終わる事に。。まさに「歴史の転換点」を体験したようなものでした。

「必殺シリーズ」を見始めました。当時の「必殺仕事人Ⅴ・旋風編」でした。22時からのTVって、夜も遅いし親がなかなか見せてくれませんでしたが、しれっと見てるうちに何も言わなくなり…で、見始めましたが、そこからわずか1年後にシリーズは終わってしまいました。。

 

2023年8月28日 (月)

生活と思い出と世の中と(1987年④)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。55回目は1987(昭和62)年の第4回です。

この年の物故者にまつわる話を綴ります。

 

●訃報

梶原一騎さん

 …「タイガーマスク」「巨人の星」など命がけのスポーツ根性アニメで一世を風靡した漫画家でした。

 我々世代は本放送では知りませんが、度々された再放送でその世界観に触れたクチで、今からは考えられない世界ですが、当時はそれなりにそういうものなんだと思って観ていましたし、次どうなるのかハラハラしていたものでした。

 プライベートが破天荒である事も知られワイドショーでもいろいろやってたな、という印象がありました。50歳の太く短い人生でした。

春日照代さん

 …「春日三球・照代」で、夫婦漫才の代表的存在として活躍した方。
 番組の本番中に倒れてそのまま51歳の若さで帰らぬ人となりました。夫の三球氏はことし89歳の長寿で亡くなられました。

鶴田浩二さん

 …任侠映画などで主演格として人気を博し、晩年は脇に回って重鎮として君臨した映画俳優。
 テレビではNHK「男たちの旅路」シリーズや1年半放送された「大空港」の加賀チーフが当たり役でしたが、「戦争」をバックボーンにした役柄が多かったように思います。
 といっても生前、個人的に顔と名前が一致しませんでした。田中邦衛さんと勘違いしていた(多分、大空港で)時期もあって、その存在をはっきり知ったのは亡くなられてからでした。

石原裕次郎さん

 …この年の訃報で最も衝撃的でした。

 ずっと「太陽にほえろ!」のボス役で見ていた人だったので。
 1981(昭和56)年に動脈瘤で倒れた時もかなりの衝撃でしたが、「太陽にほえろ!」が終了して1年も経たないうちにまさか亡くなるとは…

 そういえば、その最終回で延々と「命」について説くシーンがあったのをその時に思い出しましたが、本人が死期を悟って作ったシーンかな、とか勝手に思っていたら、後日「俺に7分だけ時間をくれ」といってノーカットで撮ったという逸話が公開され、「やっぱりそうだったんだ」となりました。  

 忘れもしない、NHKラジオを自部屋で聴いていたら16時のニュースで「俳優の石原裕次郎さんが…」と言い出すから、「何事??」と思っていたら「亡くなりました。52歳でした」ってそれはもう衝撃で、しばらくは空虚状態が続いていました。

石原裕次郎さん最終回シーンのひとコマ

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有島一郎さん

 …「暴れん坊将軍」の爺こと加納五郎左衛門役で存じ上げていた方でした。
 この3月までレギュラー出演していて、まさかとビックリしました。また裕次郎さんの訃報から日が浅く、そういう意味でも「立て続けに知ってる方が…」とビックリしました。

 この爺役以外のこの方の役を知りませんでしたが、その直後に再放送でやっていた「われら青春」で、舞台となる高校の校長役をやっていたのを見ました。

岸信介さん

 …元首相の訃報として生まれて初めて接しました。それまで現役の大平正芳首相の死去は経験しましたが、元首相の訃報に接する事がなかったので。

川口浩さん

 …俳優。だったのですが、俳優だったことを知ったのは死後でした。我々世代にとっては「水曜スペシャル」の「川口浩探検隊」なんですよね。嘉門達夫氏も歌にしたぐらいの人気シリーズで。わずか50歳の若さでした。

 

と、早世の方ばかり挙げましたが、当時高校生というのもあって、あまり年の離れた方は存じ上げず、どうしてもTVで馴れ親しんだ若い世代の方に関心がいきがちで、またそんな50歳前後の若さで逝く方の多かった年でもあると思いました。

 

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