DQN会社の日々
今回はちょっと私的な事を書きます。
社会人になってから、無職期間を挟みつつ計4社を経験していますが、最初の会社を辞めてから半年強無職で、それから8か月ほどアルバイト生活をしながら就活していましたが、面接して入社が決まった為、社員としては1年4ヶ月ぶりに再就職となりました。
バイトしながらの就活は4ヶ月ほど前からしていましたが、全然ダメでバイトすら受からない状況で、ある日求人誌を見て「高給を狙える」となって、応募したら
「すぐに面接に来てほしい」となり、
すぐに面接に行ったら、その場で採用決定しました!
それまで内定がなかなか取れなかったのに、ここではその場で採用決定してしまい、あまりのトントン拍子に逆に拍子抜けしました。
しかし…、そのトントン拍子に「おかしい」と、その時はまだ気づきませんでした。
とりあえず出社可能日を伝えて、バイト先へ退職を告げました。
そのバイト先からは、少し前に社長さんから「正社員にならないか?」という話は受けていました。「月給20万は出す」という事でした。目の前の安定を取るのも悪くないのですが、通勤に時間かかってたし、いつまでもそこに居ようとは思っていかったので、辞めさせていただく事にしました。
ちなみにその職場は3年後に倒産したようで、「あの時、正社員の話を受けなくて良かった」と結果的には思いました。その時もまだ正社員身分ではなかったのですが…
そんなこんなで久々の「正社員」ライフに戻れる!と意気揚々に乗り込んだ職場。
その会社は今は存在せず、何十年前の事でもう時効だからある程度はそのまんま書きますが教材販売会社でした。
まず衝撃だったのは、あいさつの声がハンパなくデカい、という事でした。
自然なあいさつではなく、まるで軍隊のようでした。
最初は、会社概要説明という事で、そこの営業所長より説明がありました。偶々同時期に入社となった1つ年下の人と一緒に話をききましたが、その所長というのがガタイがよく、一見さわやかながらめちゃめちゃ怖い雰囲気を醸し出していて、トサカみたいなリーゼントでバッチリ決めた元ヤ〇ザじゃない?くらいな感じの方でした。喋り方は原辰徳監督のようでしたが、風貌は吉本新喜劇の烏川耕一さんを更に強面にしたような。
所長の上には副部長というのがいて、これがもうヤ〇ザの恫喝みたい感じで、集会時に怒鳴り散らしていました。「○○じゃないか!分かってんのかマオエら、おぅ!」みたいな。今のご時世なら完全にハラスメントでしょう。所長の下は「主任」というのが2人いました。ともに25、26歳くらい。この手の世界は23歳経験3年で課長とか、すごいのがあるのは知っていましたが、この人達はヒラより格上でパシリもさせてたし、自分も主任のパシリで「タバコ買うてって」と言われたこともありましたね。完全な身分社会でした。ヒラの方はいわゆるやり手もいれば、自分たちと同じ地平の方もいて様々でした。とにかく全員が転職者でここでの年数も浅く、前職も様々でした。トラック転がしてた人もいたし。人がコロコロ変わっていると知った時にDQNの匂いを感じました。そらこんな職場長続きしないよな、と。。
横道逸れましたが、次にビデオ視聴(当時DVDなどなく)がありました。「てんびんの詩(うた)」という商人魂を訴えたドラマで、営業関連の職場ではよく使われているといいますが、この時は普通に見ていました。物をひとつ売るのって難しいことだな、って話です。しかしこれがDQNにつながるのか…と後で知る事となりました。
何せずっと前の事で、時系列を忘れた部分も多々あり、ここから散発的に書いていきますが、ビデオ視聴といえば教材を売りつけるイメージングビデオみたいなのを見ました。セールストーク主体ですが、坂上二郎さんみたいな顔した営業マンがとにかく「絶対です」と言い張り続ける、そんな記憶しかないですが、押しかけた客宅の親御さん?の問いに、ひたすら「絶対です」で押し通して、自信のない態度をとらずに、根拠がなくても毅然と対応しなさい、的なものでした。これはヤバかったです、洗脳レベルでした。
あと出勤時間は7:30(!)でした。早すぎでしょ!って感じでしたが、売れる人は11:00にゆうゆう出勤して、売れない奴は7:30に来い的な感じでした。7:30に来ても仕事するというより、事務所の掃除です。副部長室の灰皿もきれいにしたり…。いつだか朝にちゃんと掃除したのに灰がたまっていた時に、先輩から呼び出されて「普段から機転を利かせてきれいにしないと」と言われたりもしました。丁稚奉公ですね。当時はそんな嫌な感じはなかったですが、今の時代に他人にそれを強いることなど一切できないですね。
帰りは23:00過ぎてもほとんどの人がいました。セールストークの練習やら所長への報告やら何やら…、電車通勤だったので終電に合わせて帰っていましたが「こいつなんでそんな早く帰るの?」的な雰囲気でした。それで出勤時もですが、退勤時には所長へ挨拶をしなければなりませんでした。腹からありったけの声を上げて「ざす!」って感じです。なんで帰り時に「ざす」か分かりませんでしたが…。
こうして書いてみるとDQNとはいえ、機転を利かすとか奉仕するという面ではある程度の人間修行だったのかなとも感じますし、セールストークを空で覚えるくらいやり込んだのも勉強にはなりました。しかしその商売のやり口に関していえば、ある程度まっとうな人間である事に蓋をしなければならない?面がありました。
その一つが「電話」です。営業電話。各人が長く並んだブースに入って、渡された名簿をもとにひたすら電話をかけ続けるのです。職場でもよく「電話かけてかけてかけまくれ!」と。そうして何回も断られていくうちに、うまくいくコツも掴めてくるものだ、とも。しかしその名簿の入手は、どこかの学校周辺で拾ってきたものだとか、何らかのルートで手に入れたものとか、当時まだそれほど個人情報に対してユルかったのですが、あまりまっとうなやり口とは思い難いものでした。しかも電話をかける時に名乗る会社名は1社だけでなく関連の名前含めた3つくらいに呼び名を使い分けて、同じ会社から電話したと思わせないようにする姑息なテクニックも使わされていました。
その電話をしてて、まともに話を聞いてくださる方もいれば、「○○くんのお母さんおられますか?」と言うと、その旦那が出た時には「人の嫁呼び出すってどういうこっちゃおまえ?」と食いついてくる方もありで、これはちょっとまともな商売じゃないな…とさすがに感じましたね。
電話の進行も、教材の販売という事ではなく、「地域に巡回で学習の悩み相談をしている」的な感じで話を進め、予約が取れた家庭には直接訪問するというものでした。ごくたまに予約が取れ(自分は1件もとれませんでしたが)、何日か経ってからその客宅へ伺うよう指示を受けました。
ついに客宅訪問、そこは(他の方によって)アポが取れたので行き易かったですが、延々まわりくどいセールストークして、結局教材を売りたいことが分かるので、家族の方から「そういうことだったんですか」となり結局売れるはずもありませんでしたが、そこでは飲み物も出して頂いて、比較的良い扱いではありました。ここで売れなければ会社の収益にならないし、ここは結構歩合割合が高く、自分の給料にも反映しなくなるのです。
自分の人生経験上、今までにないくらい色々勉強にはなりましたが、先のやり方がまっとうではない事と、もうひとつは「恫喝が多い」事ですね。この2つがかなりきつかったです。もうひとつには無限に会社に居なければならない、もありましたが…。
とにかく、教材売上がノルマに達しないと副部長のヤ●ザ恫喝が延々と続いていました。ただの恫喝オヤジと思っていしたが今も元気にしてるのでしょうか、正直苗字しかしりませんでしたが。それ以外にも社員同士血の気が多いのか、喧嘩はしょっちゅうで、手こそ出ないものの恫喝はしょっちゅうでした。これはホント精神衛生上大変よろしくなかったですね。ほとんどが歩合給の特殊な世界で、サラリーマン的な方があまりいない感じでした、普段穏やかな人は結構いましたが、キレるとまらない人も結構いました。生産的な前向きなぶつかりならまだいいのですが、殆どがただの喧嘩であり、言い合いでした。若い人が多いのもそうなる背景のひとつだったと思います。平均年齢30歳なかったかもというぐらいでしかもほとんどが転職者で気心知れた相手もなく、という具合で。
そんなこんな色々と耐え切れなくなり、いつまでもいる世界でない、と思いわずか10日でこの会社は辞めました。入院すると嘘ついて行方をくらましたのですが…。普通に家に居たら追っかけてきそうで。数日経ってから手紙にて辞意を伝えました。色々とキッチリ筋を通すべきところでしたが、姿を見せると引き戻されそうに思えて、この手段に出ました。ずっとずっと昔の、いわゆる黒歴史を綴ってみました。
当時生活費がなく、ここを辞めての職探しはかなりリスキーでしたが、それでも辞める事を選択した、それくらい異世界で、キツかった人生の1ページでした。いつも求人誌に載っていて面接でその場で採用するような会社には、そのつもりで入ってください。という事は言いたいです。
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