生活と思い出と世の中と(1992年①)
遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。35回目は1992(平成4)年の第1回です。
もう30年以上も前になる事にただただ驚きですが、バルセロナオリンピックが開催され、競泳・岩崎恭子選手の「今まで生きてきた中で、一番幸せです」と14歳にして放ったセリフが印象的でした。また100歳の長寿の双子「きんさん・ぎんさん」も大変話題となりました。
●ニュース
東京佐川急便事件が発生し、副総裁であった金丸信副総裁が議員辞職したというのがありました。当時は深くは知りませんでしたが、その3年前のリクルート事件など、企業と政治献金のクローズアップされた時期でした。
福岡県飯塚市の女児連続殺人や千葉県市川市の一家4人連続殺人など凶悪な事件が発生していたのもこの年で、後に犯人が死刑になる事件が数多く発生し、たいへん衝撃的でした。市川の事件はしばらくの間はワイドショーを賑わしていました。
アニメ「セーラームーン」のシリーズが始まったのはこの年でした。'90年代を大いに盛り上げたアニメシリーズといえます。
東海道新幹線に「のぞみ」が登場した年でもあり、それまで「ひかり」と「こだま」しかなかった状態から、この「のぞみ」の存在はグッと大きくなっていき現在に至ります。また、山形新幹線がこの年開業しています。
太陽神戸三井銀行が、「さくら銀行」となりました。現在の三井住友銀行ですが、自分のキャッシュカードはいまだに「さくら銀行」のもので、この「さくら銀行」銀行のイメージは強いです。
国家公務員の週休2日制がスタートしました。当時学生でしたが、通っていた大学がこの年より土曜休みとなり、土曜の授業がなくなったのを覚えています。で、土曜に校舎に入る時は、専用のカードでセキュリティに通して入るようになり、事前にカードをもらっておかなくてはいけませんでした。
貴花田関と宮沢りえさんの婚約が日本中で話題になりました。その後解消されていますが、2人ともこの時期は何かと話題を振りまく事が多かった、影響力のある人物であったとつくづく感じたものでした。
色々な長寿番組が終了し、昭和からの一時代の終焉が感じられた年でもありました。これについては後述します。
●学生生活
このシリーズで「仕事」というカテゴリで1993年に遡るまで書き続けてきましたが、この年は1年通してまだ就職していない「学生」でしたので、学生身分であった自分史を「学生生活」として書き綴りたいと思います。
この年は大学3年から4年として過ごした年でした。
本格的に就活を始めたのは4年生になってからで、3年生の終わりごろは企業案内が届くなど、今でいう「就活」を意識する事となりました。当時はまだそんな言葉はありませんでしたが…
どこから届いたか忘れましたが、企業案内をもらえる多数の会社説明が載った冊子が届き、興味のある会社には付属のハガキで案内を取り寄せる形でスタートし、全国企業にも地元企業にも、それぞれアプローチしました。
中でも、地元の企業展みたいなのに行って、興味のある企業ブースに入ってその会社の方々のお話を聞いたりなどしてました。
全国企業だと、広島とか京都とかの町へ出て、企業説明会に参加したり。学生身分にはそこまで出てくるお金が大問題でしたが、それ相応の交通費がもらえたりしていました。
6月か7月には地元企業から内定が出て、8/1に人生が決まる日として内定者の集まりがありましたが、事もあろうにドタキャンしました。
そこで決めてしまうのは…と、ためらいがあり、その後他の企業を応募し役員面接までいきましたが結局は内定ならず、それでも最初に内定していた会社が色々案内を送ってきて、ひとまず通信教育的にテスト提出をしていました。それでドタキャンしながら見捨てもされず、最終的にその会社に就職できることとなり、正直気が進まなかったものの、そこはある意味幸運でした。
そこの会社は秋口には「バイト研修」の通知をしてきて、実店舗に入ってバイトの形で研修をせよとの事でしたが、学生生活を送っていた地とその店舗との物理的距離の乖離等々あり全く断って、それもやりませんでした。それでも入る事が出来たのでした…。
ちなみに地元市役所の試験も受けましたが、全然ダメでした。それよりも高校時代の同級生と何人か会い晩まで歌って飲んで、とそっちの方がある意味収穫だったかもです。しかしながらこれ以降、高校時代の同級生とは一人だけしか会っていない形で30年も経ってしまいました…
就活以外の話では、卒論も大きかったです。ネタ集めとして11月頃から市内の全公民館をめぐる「行脚」も実施し、そこの地域の活動に対する積極性をはかることができ、あまりやる気ないなと感じる所もあれば、すごく熱心にお話し頂いた所もありで、行程は全公民館へテレアポして全部自分で計画しましたが、やってて楽しかったですね。
論文を書き始めたのは12月からで1ヶ月で原稿用紙100枚分、先輩から借りた「ワープロ」と格闘の日々でした。今みたいにPCで色んな操作ができる時代でなく、殆どの人間がワープロ頼りで、一部の情報処理に長けた人がPCを使っていたかどうか、ぐらいでしたねこの当時は。
大学に入ってから、この年の年末に初めて、実家に帰りませんでした。卒論執筆真っ盛りで受験生同然の生活で、家に帰ってのんびりできる余裕がなかったので。その論文を提出するのは翌年初めの事でした。
●プライベート
といっても、学生生活がイコールでプライベートだったので、特に分けて書く事もないですが、この年はそれまでのような日勤バイトをしてませんでしたが、単発でいくつかバイトをしてました。ほとんどが知り合いの伝によるもので、日給1万円くらいもらってましたかね。
それらのバイトは当時やっていた恐竜博覧会で何日か入り、化石売りをした日もあれば、ジュース売りでほぼ女の子とベラベラ喋ってただけの日もありました。化石売りは主催者のオッサンが全面ヒゲ面のとても怪しい雰囲気でした(笑) あとスポーツレクリエーションのバイトや二科展の搬入バイトなんかもやってました。
あと、当時ならではだと、実家への帰省時に一度バイクで250kmの道のりを帰ってましたが、色んなところで喫茶店や、ドライブインに寄っていました。今は存在しない店が殆どではないかな、と思います。特にドライブインはなくなりましたね、、逆に今みたいに道の駅などほとんどありませんでした。
週に1日しか授業が無かったので、春先は殆ど地元へ帰って、週一で学校へ戻ったり、というのを何度か繰り返していましたが、夏以降は逆に実家に帰る事が殆どなくなり、学生生活を満喫していました。就職が決まった事が、その境目でした。
大学のイベントで「徹夜ハイキング」として、夜8時頃?~翌朝9時過ぎくらい40kmあまりの道のりを何度も休憩しながら、一緒に歩いた人々とずっとくっちゃべりながら歩いていたのは実に良い想い出でした。最後は足が棒みたいになってましたが、不思議とあまり寝られず、すごいしんどい感はあまりないままでした。単純に若かったなと。寒かったのにずっとハイテンションのまんまでした。
1992年第二弾は、見たテレビや聴いた音楽や、もっと当時の世相を反映した内容を書き綴ります。
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