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2023年4月 6日 (木)

生活と思い出と世の中と (1992年③)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。37回目は1992(平成4)年の第3回です。

第1回は自分史的なもの、第2回はドラマや音楽や芸能面などで、今回は当時のプロ野球や大相撲などを振り返りたいと思います。

 

●プロ野球

久しぶりの阪神優勝か!と湧いたセ・リーグでしたが、ヤクルトが実に14年ぶりにリーグを制し、野村ヤクルトとしては3年目にして優勝を成し遂げ、「ID野球」ともてはやされ始めました。

ヤクルトは日本シリーズでは常勝の西武と対決し、第7線までもつれて最後には西武に日本一を奪われて、14年ぶりの日本一はなりませんでしたが、翌年同じ西武と対決して雪辱を果たす事となります。

この日本シリーズでは第1戦で、40歳の大ベテラン杉浦亨選手が西武の抑え・鹿取義隆投手より劇的な代打サヨナラ満塁ホームランを放ち、当時この年限りで引退する意思を固めていましたが、野村監督からの要請もあり、1年現役を延長し最後は日本一を花道に引退する事となりました。

 ◆ヤクルト

 先の通り1978(昭和53)年以来のリーグ制覇を成し遂げ、いよいよ常勝ヤクルトの到来かというところで、90年代の強いヤクルトの幕開けとなりました。

 そんな中でベテランをうまく使った「野村再生工場」も機能していました。日本ハムから角盈男投手を獲得し復活させ、また彼も活躍しました。日本ハムでは先発主体で投げていましたが、久々に抑えに戻って46試合に登板し7年ぶりに5Sを挙げて、来年も戦力になれる成績を残したにもかかわらず引退し、通算セーブは99に終わり100セーブにわずかひとつ足りませんでした。

また同じ元巨人の左投手である新浦壽夫投手もシーズン途中に獲得しました。新浦投手はこの年に大洋からダイエーへ移籍したばかりで、ダイエーでは思うような活躍ができず、ヤクルトでは野村監督の「奇襲」でいきなり先発したり41歳でも一軍で投げて、なんとか最後の1勝を挙げて引退しました。

打ではハウエル選手が首位打者・本塁打の2冠王としてこの年君臨しました。すごい外国人が来たなと思いましたが、そのご目に見えて成績が下降していったのは残念でした。飯田哲也選手が盗塁王を獲得しています。

 ◆阪神

久々の優勝期待に沸いた年でした。それまでの弱小ぶりが嘘のように、新庄剛志・亀山努という新星が現れ「新・亀フィーバー」に湧き上がり、一方で純粋な新人・久慈照嘉選手の堅実な守備を中心として活躍もあり、新人王争いに興味津々のところでしたが、最終的には数字的に目立たないながらも堅実な活躍を続けた久慈選手が新人王となりました。

オマリー・パチョレックという外国人勢が活躍して、共に規定打席で3割をマークしました。また八木裕選手が21本塁打をマークし3年連続20本越えを記録しましたが、規定打席到達と20本塁打越えはこの年が最後で、後の「代打の神様」もこの当時はレギュラークラスで活躍していました。

投手ではマイクの愛称で親しまれた仲田幸司投手にとって最良の1年で、現役生活で唯一の2ケタ勝利となる14勝を挙げました。2年目の湯舟敏郎投手が初の規定投球回クリアと2ケタ勝利11勝を挙げ、またノーヒットノーランの快挙も達成しています。抑えは田村勤投手が5勝1敗14Sで防御率が1.10という素晴らしさでした。中込伸投手も2ケタはなりませんでしたが自己最多9勝(8敗)で200回以上を投げ、防御率2.42という素晴らしい成績でした。

ベテラン勢として移籍してきた古屋英夫、高橋慶彦といった選手がここ阪神で揃って引退、それぞれ日本ハム、広島で主力として長く活躍してきましたが、割にひっそりとした最後だった印象でした。

 ◆巨人

阪神の優勝期待が高まった年でしたが、意外にも阪神と同率2位に終わったのが巨人でした。

藤田元司監督最終年となりましたが、ものすごく打つ選手がいたという感じではありませんでした。チーム最多ホームランは原辰徳選手の28本でしたが、原選手が20本以上打ったのがこの年が最後で、新人から連続20本塁打以上はこの年までの12年間で以後途切れる事となり、また新人からの規定打席到達もこの年までの12年連続で以後途切れてしまい、彼がレギュラーで活躍していた頃と以後の姿と境目になる時期でもありました。

その他、規定打席に到達したのは1989(平成元)年の日本シリーズで6、7番コンビだった岡崎郁、駒田徳広選手でした。また緒方耕一選手も2度目にして最後の規定打席到達となり、その後のケガの多さで選手寿命が短くなったのは残念でしたが。

他に印象的だったのはデーブこと大久保博元選手がトレードで西武から移籍し、15本塁打で一躍ブレイクした事です。その後色々あり28歳で引退しますが、この年の活躍が無かったら彼の現在はなかったのでは?というぐらいの目覚ましい躍進ぶりでした。

僅かに規定に足りませんでしたが、モスビー選手の活躍も光りました。当時ハウンドドッグの大友康平氏が雑誌のコラムで「足捌きがセクシー」とモスビー選手を評していました。またこのコラムでは移籍してきたベテランの大野雄次、熊野輝光の各選手へもエールを送っていたのを思い出します。

投手陣では斎藤雅樹、槙原寛己、桑田真澄の「三本柱」がきれいに3人だけ2ケタ勝利を挙げていました。斎藤投手は17勝6敗とさすがの成績でしたが、槙原投手は12勝13敗、桑田投手は10勝14敗と2ケタ勝利を挙げながらいずれも負け越したところに優勝に辿り着けないものがあったと思います。また宮本和知投手は惜しくも9勝9敗でした。

またこの年の投手陣は槙原投手の29歳が最年長という大変若い、30代の投手がいないという特異な状況でした。これは前年より続いている状況で、1990(平成2)年に加藤初投手が41歳で引退後は20代の槙原投手が最年長という状況になっていました。確かに巨人の投手は江川、西本といった昭和30年頃生まれの世代から槙原投手ら昭和38年以降生まれまで、ガラッと空いていてこの間の世代に主力投手がほとんどいなかったのが前々からの状況ではありました。

 ◆広島

前年1991(平成3)年に5年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた広島でしたが、この年は一転してBクラスへ転落しました。66勝64敗と辛うじて勝ち越したものの、この年から四半世紀にわたり連続Bクラスを記録していく事となってしまいます。

打の戦力変革の時期で、前田智徳、江藤智といった選手が出始め、前田選手は2年目の前年で規定打席到達していましたか、この年は初の3割(.308)に19本塁打89打点と大いに躍進して一躍怖いバッターになった感がありました。江藤選手はレギュラークラスではあったものの、まだ規定には届かないレベルでした。

正田耕三選手が.301でさすがの実力というところ、前年.291に終わって連続3割が4年で途切れてしまいましたが、2年ぶりに達成し、前年3割に届いていれば6年連続3割の快挙となるところでした。後に監督になるブラウン選手が初年度で打率は.233に終わりましたが、来年も在籍する事となりました。

捕手では長年レギュラーを張ってきた達川光男選手が100試合には出場したものの、西山秀二選手へ世代交代する形で引退しました。余談ですが、この年大学の授業の一環である施設に泊まっていたところ、そこへ「達川ファミリー」なる団体が来てて、おそるおそる聞くと達川選手の御親戚だった、という事がありました。この少し後だったんですよね、彼が引退したのは。

投手では、引退した達川選手と同級生の大野豊投手が26セーブで前年に続きリーグ最多セーブを記録しました。

先発陣はエース北別府学投手が14勝を挙げ、間近となっていた通算200勝を達成し名球会入りしました。これが最後の2ケタ勝利でした。

佐々岡真司投手が12勝を挙げ新人から3年連続2ケタ勝利を記録し、長冨浩志投手も最後の2ケタとなる11勝を挙げました。川口和久投手はこの年8勝どまりで、前年まで2ケタ勝利を6年連続で達成していましたが、遂にここで途切れてしまいました。この年躍進したのは片瀬清利投手で、28歳のシーズンでそれまで通算0勝がいきなり7勝6敗1Sで、背番号15にふさわしい活躍を始めた、と思ったものでした。

投手陣は昭和50年代から続く、北別府・大野・川口を中心としてさらに長富90年からは佐々岡と、新戦力も台頭するものの、まだ旧戦力が表舞台に立ち、彼らも30歳をとうに過ぎて、これまた戦力変革の時期かなというところでした。

 ◆大洋 

「横浜大洋ホエールズ」として最後の年でした。

外国人でパチョレック選手が阪神へ移籍してしまいましたが、代ってシーツ選手が打点王となりました。前年3割をマークし高評価されたレイノルズ選手は打率を大きく落として、翌年近鉄へ移籍する事となりました。

打線は外国人頼みかなという感じで、その中で高木豊選手が.300と3年連続3割達成しましたが、このオフの契約交渉がこじれにこじれ「調停」となったのを覚えています。それまで調停なんて教科書で習っただけの言葉でしたが、この時初めて実社会でこの言葉を聞きました。結局年俸アップは勝ち取ったものの、この件が響いてか翌年オフに事実上の首切りに遭う事となります。

屋鋪要選手が4年ぶりにして最後の規定打席に到達しました。平成に入ってから思うように活躍できず、このまま落ちていくかと思っていましたが、この年には到達、しかしこの翌年オフには高木豊選手同様首切りに遭い、巨人へ移籍する事となり、この年の日本人の主力は不安定な状況になりゆく時期でした。

それまでレギュラーを張っていた清水義之選手が少し出番を減らし、取って代わるように進藤達哉選手が出てきました。堅守のイメージが強かったですが、結構長距離も打つなという感じで見ていました。躍進したのは畠山準選手で、投手で芽が出ず野手転向でダイエーから移籍してきましたが、この年10本塁打を記録、その後翌年から2年連続で規定打席到達する事となります。

捕手では秋元宏作選手の方が出番が多く、谷繫元信選手は4年目22歳のシーズンでしたが、まだレギュラーを取れず、秋元選手と争い続ける時期を過ごしていました。

投手陣は、斎藤明夫・遠藤一彦というベテランが37歳を迎え、遠藤投手はこの年に引退しました。アキレスけん断裂後抑えとして復活しましたが、横浜大洋として区切りをつけたいとの意向もあったようで、横浜大洋になった1978(昭和53)年に入団し、この年までピッタリ「横浜大洋」の歴史が彼の現役生活そのものでした。尚、斎藤明夫投手も翌年引退します。大洋投手陣を支えた両輪が相次いで引退していく実に過渡期だった訳です。

そんなベテラン頼みからの脱却が課題でしたが、前年ただ一度の2ケタ11勝を挙げた岡本透投手が8勝で規定はなんとかクリアしたものの、若き野村弘樹投手は5勝に終わりました。ギリギリで規定投球回クリアした田辺学投手は4勝と、先発陣はかなり煮え切らない状況でした。

しかし「後ろ」は充実していました。大魔神・佐々木主浩投手は12勝21Sを挙げながら、中抑えとしていきなりブレイクした盛田幸妃投手がピッタリとハマり14勝6敗2Sで大車輪の活躍、規定投球回にもギリギリ到達し防御率2.05で「最優秀防御率」のタイトルを獲得しした。ドラフト1位で期待されながらなかなか芽が出なかったところ、最良のシーズンとなりました。

 

 ◆中日

最下位に終わったのが中日でした。前年2位からの転落であり、前年優勝した広島がBクラスへ転落するなど、かなり様相の変わった年でもありました。

打撃陣で規定打席到達したのは39歳の落合博満、23歳の立浪和義の2人だけでした。宇野勝選手はわずかに届かず、この年を最後にロッテへ移る事となります。

このような規定打席にわずかに足りない選手が多数いたのもこの年の特徴で、4年目清水雅治選手はそれまで1安打しか記録していませんでしたが、397打席でこの年78安打と本当にあとわずかに迫りこの年ブレイクしました。しかしこれが自己最高に終わってしまうのが残念でした。同様だったのが前原博之選手で、それまで6年で通算15安打だったのがこの年だけで90安打を記録し、本塁打も0だったのが9本打ちました。その後4年ほど活躍しましたが規定には届く事がありませんでした。

種田仁選手も少し足りない状態でしたが、翌年初めて規定到達します。仁村徹選手が規定打席の半数も届きませんでしたが、故障がちで意外と規定到達回数が少ないです。また、彦野利勝選手はほとんど出ていませんが、これは前年サヨナラ本塁打での走塁時にアクシデントでは走れなくなり、代走が出てホームインとなった際の負傷が尾を引いていた為ですね。

長嶋清幸選手が前年より中日に移籍してきていますが、レギュラーまでには至らず翌年ロッテへ移籍する事となります。

外国人では残留となったライアル選手がケガ等あり、代って急遽獲得したパウエル選手が大当たりで、ライアル選手は2年目限りとなりました。

投手では、2ケタ勝利を挙げたのは13勝の山本昌投手のみ。アンダーソン、小松辰雄投手が9勝で続きましたが、小松投手は規定投球回に届きませんでした。今中慎二投手は8勝を挙げましたが、本調子でなく出番も限られていました。また郭源治投手も序盤のアクシデントもあり先発で4勝3敗のみと、それまでの主力がなかなか揃わなかった面がありました。89年20勝を挙げた西本聖投手は1勝11敗の成績に終わり戦力外通告を受けオリックスへ移籍となりました。

抑えは与田剛投手が復活し、23Sを挙げました。前年は0勝3敗2Sに終わり、森田幸一投手に華々しい場面は持っていかれましたが、この年は逆転しました。ただ与田投手が派手な活躍をするのはこの年が最後で、その後は苦しいシーズンが続きます。森田投手もそれを追うかのようにこの2年目から年々失速していきましたが、この年はまだそれなりの活躍はしていたと感じました。

 

ここからはパ・リーグです

 ◆西武

常勝西武がまだ続いている時期で、ヤクルトの挑戦も退けて3年連続日本一になりました。この翌年ぐらいまでが、その常勝のピークだったと思います。

規定打席で3割到達は田辺徳雄選手の302のみでしたが、デストラーデ選手が41本塁打を放ち3年連続本塁打王を成し遂げています。打点は87で3年連続の二冠王はなりませんでしたが、やはり怖い打者でした。この後メジャーと契約した為一旦ここで西武を離れましたが、3年後に再来日した時には往時の姿はありませんでした…。

AK砲として秋山幸二選手は31本、清原和博選手は36本という本塁打数でした。打率は共に.290前後と、そこそこの成績でしたが、そんなにインパクトの強い記録を残していた訳ではありませんでした。

一方で投手陣は充実していて2ケタ勝利が5人とそれは優勝するだろうという感じでした。

中でも脚光を浴びたのが石井丈裕投手で15勝3敗3Sで防御率1.94、防御率のタイトルこそ近鉄・赤堀元之投手の1.80に及びませんでしたが、MVPに沢村賞と、石井投手の年であったといったも過言でなかったと思います。

他には渡辺久信投手は12勝12敗と五分でしたが、郭泰源投手14勝4敗、工藤公康投手11勝5敗と大勝ちし、もう一人の2ケタ修理は抑えの鹿取義隆投手で実に10勝1敗16Sという殆ど負けなしの記録で、もう1枚の抑えの潮崎哲也投手は6勝2敗10Sと、後ろの投手陣も大勝ちして優勝すべくして優勝したような投手陣でした。

 ◆近鉄

パ・リーグ2位は近鉄でした。

名伯楽と謳われ1988(昭和63)年にデッドヒートを演じ、また1989(平成元)年にはリーグ優勝を成し遂げ、西武に一矢を報いた仰木彬監督の最終年でした。

規定打席到達は4名いましたが、石井浩郎選手が.290だった以外はいずれも低打率でした。ブライアント選手は38本塁打とデストラーデ選手にわずかにおよばずタイトルが獲れませんでした。翌年からはデストラーデ選手がいなくなり2年連続で本塁打王を奪取しています。

大石大二郎選手は前年までの4年間20盗塁が最高でしたが、この年は39盗塁と久々に30越えとなり、翌年35歳で盗塁王に返り咲く事となります。

中村紀洋選手が高卒で入団し、1年目から一軍戦にも出場し、6安打ながら2本塁打5打点と当初から大器の片りんを見せていました。

一方で大ベテラン新井宏昌選手が40歳にして2,000本安打を達成し、この年限りで引退しました。

投手陣は31歳の清川栄治投手が最年長という若い編成でしたが、赤堀元之投手が11勝4敗22Sという成績で、先述通り規定投球回ギリギリで1.80にて最優秀防御率を獲得しました。清川投手も2勝2敗5Sと活躍しました。

しかしなんといっても野茂英雄投手の存在感は絶大で、18勝8敗で新人から3年連続最多勝の快挙で、これは翌年まで4年連続の記録となります。この年までの3年間で53勝と驚異的なペースでしかも当時まだ24歳の若さで、本当にスゴイ投手でした。

野茂、赤堀といった投手以外で2ケタ勝利を挙げたのが新人の高村祐投手でした。セ・リーグでは阪神の新庄、亀山といった新人ではない選手含め混戦の新人王争いでしたが、パ・リーグは高村投手が新人王当確、という当時の感覚でしたが、実際13勝9敗の成績で新人王を獲得していました。

後は高・高ではありませんが、高村投手の活躍と共に高柳出己投手が自己最多8勝を挙げ躍進しました。新人時代から6勝を挙げるなど即戦力として活躍もその後伸び悩み前年に初めて7勝5敗で規定投球回に到達し、この年もわずかながら規定投球回をクリアし8勝8敗でしたが、その後が続きませんでした。

小野和義投手が前年12勝をあげながら、この年は0勝に終わり、その後も調子が戻らないまま近鉄を出る事となります。

 

 ◆オリックス

この時代は大体、西武・近鉄・オリックスでAクラスを占めていましたが、この年もまさにそり通りの状況でした。

オリックスは3位で、土井正三監督の2年目で「あの」イチロー選手が鈴木一朗として入団した年でもあり、また即戦力の大型内野手として田口壮選手が華々しく入団した年でもありました。彼らの1年目は出番が限られていましたが、イチロー選手は起用されなかったとか言われても高卒1年目で24安打を記録しています。

この年はトーベ選手が意外にも?規定打席ギリギリ到達で.305をマークし、打率2位の好成績を残しました。当初はそんな期待された風ではありませんでしたが、この年はブーマー選手がダイエーへ移籍して大きな穴が開いていた事もあり、それをある程度埋める働きはしていたと思います。一方、メジャーの実績が豊富で期待されていたマルチネス選手は.227で6本塁打23打点と不発で、5月末までしか試合に出ずに終わってしまいました。

松永浩美選手がオリックス最後の年となり、規定打席到達で141安打、打率.298の高成績を残すも阪神へのトレードを通告される事となります。

現監督の中嶋聡選手が長い現役生活の中で、たった2度だけ規定打席に到達したその2回目の年で、91、92年と連続で到達したものの、その後23年間連続で規定打席「未達」というのもまた記録なのではないでしょうか。

同じく前年より規定打席到達していたデカこと高橋智選手が自己最多29本塁打をマーク、前年23本でしたがさらに長距離砲ぶりを見せつけ、投手として入団して野手転向した成功例として、大洋・畠山準選手と共に賞賛される働きぶりでした。打率も.297をマークし、138安打と自己最高を記録、彼にとって最高の年になったと思います。

投手陣では、星野伸之投手がさすがの13勝を挙げ、酒井勉投手が最初で最後の2ケタ10勝を挙げました。酒井投手は新人時代の1989年にフル回転として新人王を獲りましたが、この年3年振りに規定投球回到達で初の10勝と見事に返り咲きましたが、その後は3勝を積み重ねただけで奇病に悩まされ、選手生命も断たれる形となってしまいました。

2年目長谷川滋利投手は規定投球回はクリアしたものの2年目のジンクスにはまる形で6勝8敗に終わりました。佐藤義則投手は38歳になる年で規定投球回に届きませんでしたが9勝を挙げました。この頃はまだ抑えが安定しない時期で、野村貴仁、伊藤隆偉、川畑泰博といった布陣で5Sずつぐらい挙げる状況でした。

 ◆ダイエー

4位はダイエーでした。田淵幸一監督の2年目にして最終年でした。

今年亡くなった門田博光選手が44歳にして引退して年でもあり、40安打で.257、7本塁打23打点でしたが、44歳でも7本塁打と最後まで超人でした。

またブーマー選手が9年間在籍したオリックスから移籍してきました。打率は.271で26本塁打でしたが97打点を挙げ見事、ダイエーでも打点王に輝きましたが、彼もまたこの年で退団し実質現役引退となりました。門田選手とはオリックスで「ブルーセンダー打線」を形成した間柄でしたが、最後は同じダイエーへ移り、同じ年に現役を終える事となりました。

外国人でもうひとり、ラガ選手は前年.236ながら32本塁打が評価されたのか残留となりましたが、この年はほとんど出番がありませんでした。

佐々木誠選手が首位打者と盗塁王という変則の2冠を獲得しました。.322で40盗塁、ホームランは21本でトリプルスリーはなりませんでしたが、安打数では2年連続リーグ最多とのっていた時期でした。

吉永幸一郎選手が初めて規定打席に到達しました。打棒に磨きがかかり、ダイエーの捕手はしばらく安泰と見られていましたが、城島健司選手の入団などで様相が変わってきました。

現監督の藤本博史選手も29歳にして初の規定打席到達となり、それまで規定未達ながら連続して2ケタ本塁打を記録するほどの大砲ぶりでしたが、この年唯一の20本塁打を記録しました。正直もっと打てると思っていましたが…。

浜名千広選手がこの年入団し、規定打席まであと一歩というところまできてほぼレギュラーを掴み、新戦力としてその後を大いに期待されていました。

投手陣は吉田豊彦投手の11勝が最高で、村田勝喜投手と新人の若田部健一投手が10勝とやや低調で、3人で31勝31敗と五分だった事も躍進できなかった要因と思いました。若田部投手は各球団が競合して欲しがる逸材で鳴り物入りの入団でしたが、10勝13敗と活躍はしましたが苦しくもあり、期待が大きすぎて厳しかったところもあったと感じます。新人王は近鉄・高村投手に奪われました。

抑えは前年阪神から移籍した池田親興投手が2年連続で務め8勝4敗14Sの成績を挙げました。この時のトレードでは一緒に来た大野久選手が盗塁王を獲った一方で、ダイエーから阪神へ来た選手はほとんど戦力にならず、ダイエーが丸儲けしたトレードと言われました。

2年目の木村惠二投手や、アンダースローの足利豊投手など、この時期に出てきて一時的に活躍した投手もいました。

山内孝徳投手がこの年引退しました。昭和50年代の中心として山内トリオの中で最後までホークスに残った一人でしたが、平成に入ってからは負けが込み思うような活躍ができず、主力からはすっかり外れてしまいましたが、この年挙げた2勝でギリギリ通算100勝に到達しての引退となりました。

 ◆日本ハム

5位は日本ハムでした。

野手ではチーム最年長42歳の大島康徳選手がこの年から規定打席未達となりましたが、それでも61安打で5本塁打28打点とまだまだ健在ぶりを見せていました。

後にヤクルト監督としてチームを優勝に導いた小川淳司選手がトレードで移籍し、代打要員として期待されましたが、低打率は解消されず結局この年限りで引退となりました。同じく大物打ちとしては藤王康晴選手が大器の片りんを見せながら中日で燻ぶっていたのを1990年に日本ハムに移籍するや出番を増やして、眠れる才能が開花してきた、と思いましたがその後じり貧となり、この年はほとんど出番がなく引退となりました。それでも彼の日本ハムへの移籍は成功といえ、個人の通算成績がかなり伸び、選手寿命も少しは延びました。

規定打席到達者に3割越えが1人もなく、新人の片岡篤史選手が.290と健闘しました。彼もまた近鉄・高村投手やダイエー・若田部投手と新人王を争った一人でした。また中嶋輝士選手が現役生活でただ一度の規定到達で同じく.290をマーク、鈴木慶裕選手も同様にこの年唯一規定打席に到達し.284と健闘しました。

打の中心は優良外国人・ウインタース選手で、打率.282で35本塁打79打点と安定した数字を残しましたが、他があまりおらず、本塁打では次に多いのが中嶋選手の13本で、打線があまりに小粒でした。

なんといっても主力の田中幸雄選手が故障で一年を棒に振ったのが大きかったです。また前年規定打席に到達して躍進した田中実選手が急失速し、翌年は一軍ゼロとなって日本球界を退団しますが、この成績下降も誤算だったと思います。この年からそれまでの大内姓から田中姓へと改姓となりましたが、レギュラー維持ならずでした。その後は韓国球界で長く活躍しますが、日本ハム時代は「規定打席到達経験があり、かつ通算本塁打0」という特異な記録を持っています。

投手陣では、広島から移籍してきた金石昭人投手が14勝12敗と勝ち頭となり、これが6年ぶり2度目の2ケタ勝利となり、移籍大成功を見せつけましたが翌年以降は抑えとして活躍を続けることとなります。

しかし金石投手に次ぐ勝ち星を挙げたのが2名で、柴田保光投手が6勝12敗、西崎幸広投手が6勝10敗と勝ち星に運がなかったのが順位に繋がったように思いました。特に柴田投手は防御率3.16でこの成績は厳しいものがありました。

新人時代10勝を挙げ、大豊作の年に現れた酒井光次郎投手は3年目でしたが4勝9敗で、毎年見事なまでに右肩下がりのキャリアを重ねていました。

抑えは白井康勝投手が務め、実に9勝3敗10Sで抑えとして唯一10S以上を挙げた年となりました。翌年は先発で活躍しますが、金石投手と役目を交代する事となりました。

 ◆ロッテ

最下位はロッテでした。

川崎から千葉へ移転して、現在の「千葉ロッテマリーンズ」になった年で、金田正一監督に代わって、OBの八木沢荘六監督が就任しました。八木沢氏といえば金田監督に一時は強制引退させられた因縁の間柄でもありました。

しかしかなりの貧打で、規定打席到達者で打率が最も高かったのは.281の堀幸一選手でした。愛甲猛選手が.274、マックス選手が.268で、初芝清選手が.249と低調で、到達者もこの4人だけでした。ホームランはマックス選手の13本が最高という超小粒ぶりでした。

捕手では青柳進選手が躍進し、規定打席間近まで出番を増やしましたが、激戦を制して正捕手の座に…とはいきませんでした。

投手陣は、前田幸長投手の9勝14敗が最高で、2ケタ勝利は1人もいませんでした。前田投手は9勝がキャリアハイで、2ケタ勝利は1度もなく、逆に2ケタ敗戦は7度(ロッテでは5年連続5度)も記録し、弱い時代のロッテで孤軍奮闘という感じでしたが、通算78勝で2ケタ勝利が1度もないのもなかなか珍しいと思います。

小宮山悟投手は8勝15敗で、やはり弱い時代のロッテで投げ抜いてきて、この時期3年連続(91~93年)で2ケタ敗戦を記録、それも16,15,14敗とかなりの黒星を背負っていました。

園川一美投手は7勝9敗で、2ケタ敗戦こそ免れましたが、かれもまた多くの2ケタ敗戦を経験し、通算76勝で2ケタ勝利が1度しかないという、この時期のロッテで投げる事の厳しさを如実に物語る、そんな彼らの成績だったと感じます。

荘勝雄投手はこの年0勝に終わり、以後1勝しかできないまま引退までの4年間を過ごしていく事となります。

園川投手と同じく7勝9敗でしたが、新人として活躍したのが吉田篤史投手でした。

先発がほぼ総倒れの中、抑えは新人の河本育之投手がすい星の如く現れ、新人の年の4月にいきなり月間MVPに選ばれ、2勝4敗19Sと大活躍、その後成本年秀投手と形成するダブルストッパーは他チームへの脅威となっていきました。

 

プロ野球振返りだけでかなりのボリュームになってしまいましたが、これにて終わりにしたいと思います。

 

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