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2023年6月25日 (日)

生活と思い出と世の中と(1989年②)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。45回目は1989(平成元)年の第2回です。

ここでは自分の過ごした思い出から当時の世相などを滲み出しながら?綴っていきます。

 

●高校時代

この年は、高校3年から大学1年を過ごした年でした。

人生の大きな変わり目で、住み慣れた実家を出て初めて一人暮らしをすることにもなりました。

まずは高校時代、前回記事にも書きましたが、1月の冬休み明けに学校に出てくると、教室で担任の先生が黒板におもむろに「平成」の2文字を書き、「これから、こうなります」と。

1月いっぱいは高校へ通学を続けながら、1月21・22日には「共通一次試験」が始まりました。いよいよ「入試」の始まりです。

我々は「最後の共通一次」世代であり、翌年から「センター試験」へと変わりますが、自己採点してて「これはダメだ!」と思いました。800点満点中520点台、志望の大学はちょっと難しいかな、と…。

中でも、理科は「生物」を選択していましたが、すごく難しくて、かなり足を引っ張ると自己採点で感じた点数でした。

これはちょっと国公立大学は無理かな…と思っていた矢先、生物の「カサ上げ」がなされることになりました。

理科は選択により平均点が著しく異なり、自分が選択した生物は平均点が40点台で、自分だけできていなかったのではなく平均点自体がかなり低いものでした。物理も50点そこそこでかなり低く、同様にカサ上げされることとなり、一方で化学や地学は70点台という、恐ろしく難易度に差がついたものでした。

このカサ上げにより、理科の点数が20点以上あがり、国公立二次試験にかなり希望材料が生まれました。このカサ上げはある方程式に沿ってのものでしたが、元々0点であっても「生物を選択」してさえいれば自動的に47点になる等問題はありましたが、とにかくこれで5教科で550点近くまで上がり、国公立の二次試験を受験できる土俵に立てる、と少し安心したものでした。

 

↓当時の共通一次受験メモがありました

Img_0322

1月は高校へ通い、2月に入ると数日の指定登校日と卒業式以外は通学なしとなりました、高校3年ならではですね。

その2月は私立大学受験が続きました。

大阪、京都、そして東京と、行きました。当時は平成に代わったばかりの自粛ムードもあった中、どこへ行くにも受験であるとともにちょっとした旅行でもあり、それぞれまともに行った事のなかった地へ行って、そして初のビジネスホテル泊、自分で新幹線に乗るのも、電車で色々移動するのも実質初めてで、いろんな初体験をしました。

特に東京…法政大学の「多摩校舎」という、都心から少し離れた場所でした。宿泊は新宿でしましたが、その時の東京駅や新宿駅の人の多さにはビックしました、テレビでしか見たことのないような所へ自分が行ったのも不思議な感覚でした。そして受験の時に多摩校舎への電車移動はなかなか大変でした。電車それまでほとんど乗った事がなかったので…。

その私立大学は4大学全5学部受験しましたが、全部落ちました!

あとは共通一次試験後にエントリーした国公立大学2校のみ。

これらを残す状況で2月25日に高校の卒業式がありました。登校日ということを親が知らず、自分も珍しく寝坊してしまい、大遅刻!起きた時刻がクラス集合時刻を過ぎていて、自転車で20分以上かけて通学していたので全然アウトでしたが、着いたら卒業式へ行こうとするところでまだクラス集合で教室にいる状態でした。教室に入るや、先生はじめクラスの全員からの視線を浴び、「このクラスは最後まで遅刻する奴がおるなぁ」と言われ、その最後の遅刻者となりました(笑) 

その後2月末と3月初にそれぞれ、松江と高松へ行きました。松江は卒業式後すぐに行きましたが、山陰なんて初めて行ってめちゃくちゃ時間かかりましたし、高松は「マリンライナー」に乗って行きました。この前年に瀬戸大橋が開業したばかりで、本州と四国が瀬戸大橋線として鉄道で繋がるようになったばかりでもありました。高松の駅前が故郷の姫路駅前にそっくりだったのも印象的でした。

どこを受けても合格発表が電子郵便で着くまではソワソワしていました。国公立は結局前者には合格し、やっと初の合格、とりあえず浪人はせずに済んだ、とホッとしました。しかし次受かったらそっち行こうと思っていたので、後者待ちでもありました。結局不合格で前者のみ合格で、今後住むための下宿探し等することとなりました。

偶々、高校の同じクラスで同じ大学に受かった人がいたので、3月下旬に一緒に行きました。大学で部屋の資料を探しながら電話しようとしていたところ、ある方が声をかけてきて「うちを見てくれないか」と言われ、友達と共に案内されるがままに部屋を見せてもらい、少し考えながらもほぼ即決の形で帰ってきました。

住処は、大学から歩いて10分程度の程よい位置で、当時の家賃1.3万円+電気代、水道代…な感じで、キッチン、風呂トイレ、洗濯機は共同の四畳半ひと間という最低限のところで、親は金のかからない寮に住めといっていましたが、寮に住んだら2人一部屋で酒をどんだけ飲まされるか…ということで、下宿に住むといって許諾を得ました。まだ親から金をもらう身分だったので色々許可が必要だった事もありました。3月末は高校の同級生と連絡取りながら次の進路への準備をしていました。生まれて初めてスーツを買ったりとか。

 

●大学生に

4月が来て初めての引越しということで準備、親が用意してくれたでっかい段ボールに荷物をどんどん詰め、逆に要らないものをどんどん捨てて…という感じで4月初旬は過ぎ、4月8日朝から13年住んだ実家を出て、隣に住んでる祖母にも出発の挨拶をして、電車へ。昼過ぎには現地に着いて、引越し荷物が届くまで大家さんの家でお茶菓子もらいながら待たせてもらいました。大家さんの家の中に入ったのは4年間でこの時だけでした。

程なくして引っ越し荷物が続き、1~2日はその荷物でほぼしのぎ、買い物もよく分からなかったので、親が引っ越し荷物で送ってくれた食糧が大変助かりました。カップ焼きそばなども(笑) その後、高校時代の友達が後乗りしてきて、大学の一人暮らし用品会場みたいなのに行って、冷蔵庫やカラーBOX等々買いました。当初部屋はほとんどのもの「黒」で揃えました。

そして入学式、初めてスーツを着ての外出でした。

入学ガイダンス、学部だと知り合いは一人もいない心細さはありました。小学校からそんな事は全くなかったので。馴染むのにも少し時間がかかりましたが、人と居る時と一人で居る時の身の「処し方」はだんだん分かるようになってきました。

市役所へ転入手続きをした時に、これからここで4年間暮らすんだ、と思いつつ宍道湖の夕日を眺めていました。

 

●大学生活

一人暮らしは意外にすんなりいって、ホームシックになるようなことはありませんでした。ただ下宿がなんでも共用だったのが煩わしくて、実家に帰ると何かとラクだったので、1ヶ月たたないうちにGWにさっさと初めての「帰省」をしました。料理も風呂も好きな時間に利用できず、風呂は特に先に入られると30分くらい待たないといけないし、電話も共用で長電話する人がいたら、外の公衆電話まで行かなくてはでしたし、今ではないことですね。携帯なんてないので。

大学で楽しみにしていたのが授業でした。といっても、まだほとんど一般教養、高校の延長上でした。けど少し専門的になり、高校までの雰囲気と明らかに違ってて受験対策一切ないので「学んでる」感はありました。最初は結構休まずに講義に出ていました、最初は…

夏休みまた帰省しました。7月半ばに。お金がなかったので特急など乗らずに全部普通電車で。それも姫新線の途中駅何度か下りたり乗り換えたりしながら。その時無人駅というのを初めて見ました。それまで都会駅しか行った事がなかった、というのがつくづく感じたところでした。

夏休みは実家からバイトへ通い、毎日ロイホ(Royal Host)の皿洗いで8:30~13:30くらいまででしょうか?やっていました。当時の時給は520円!今からはとても考えられないレベルで、8月末まで1ヶ月強夜勤も含めて毎日のようにやってましたが、稼いだお金は¥58,000程度(!)、自動車の運転免許取るための教習料金稼ぐためもありましたが、とても届きませんでした。帰ってから、当時やっていた昼帯ドラマ「夏の嵐」の録画を見るのが楽しみでもありました。夜勤の時は、終わったら夜中の2時ごろで、気分ハイになるので、勤務前にノンアルビール、当時「スワン」というのが売っていましたが、これとお菓子を買い込んで業務後の楽しみにしていました。食欲ピークの頃なので、それはもう力いっぱい?食べまくっていました。

夏休みが終わると、実家から大学へ戻り、水泳実習?がありました。暑くて湿気てて、1ヶ月半空けた部屋がエライことになっていました。

 

●激動

前半9月までは割と平凡で、ともすれば退屈もよくしていた学生生活でした。

しかしある時を境に一転しました。

所属団体で1回生から大学行事への参画者が必要との事でじゃんけん(当時は「最初はグー」は一旦廃れていた頃)で負けて駆り出されることになり、これいこうそちらに身を捧げる事となってしまい、生活が激変しました。

当初は結構いやいや出てましたが、学部とは違う知り合いができ、また苦楽を共にすることでいろんなメンバーと打ち解けていって、最終的にすごくはまってしまいました。ほとんど家には帰らなくなるぐらい居ついたり…。睡眠時間極小でフラフラになりながらも仲間と過ごして、(今はゼッタイダメな)一気飲みも何回かしながら…、とにかく酒席では盛り上がり、普段は昼間は講義、17時過ぎは行事参画、夜にみんなでレストランへ繰り出すのも楽しみでした。

行事も無事成功し組織は解散となりましたが、その繋がりが楽しくて、終わっても関係者と交友していて、これが翌年も翌々年も活動を続けることにつながりました。当時のメンバーとは30年以上を経た今でも繋がりがあり、所属先でじゃんけんに負けたことが人生を変えたといっても過言ではないレベルの出来事でした。

 

あまり、1989年に特化したことが書けてない気がしますが、次の記事では当時見たテレビにまつわる話を綴りたいと思います。

 

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