2025年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

« 生活と思い出と世の中と(1990年①) | トップページ | 生活と思い出と世の中と(1990年③) »

2023年6月 1日 (木)

生活と思い出と世の中と (1990年②)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。42回目は1990(平成2)年の第2回です。

1990年の個人的な経験を中心に、当時の世の中の事も交えて書き綴ります。

 

●学生生活

この年は大学1年から2年になる頃で、4月から2年生になり、何より後輩ができてのが嬉しかった頃でした。

大学というところは、1年生はとにかく一番下っ端で酒をとにかく注ぎまくって飲まされて、という感じで、運動部に入っていなくてもそういう体育会系的な文化がはびこっていて、また平成になったばかりというそんな時代背景もあり、「早く後輩が来てほしい、楽になりたい」というのがすごくありました。今は後輩に酒飲ませるなんてのはないでしょうかね?ある意味ハラスメントになりますよね。当時はそういうのは当たり前でしたがきつかったのも確かです。

まず酒を一気飲みしてから自己紹介、というのを皆の前で大声でやり、トチるとまた一気飲みしてやり直し、とにかく「イッキ、イッキ」というのが皆好きでした。こんな文化今は廃れてると思いますが、それで正解だと思います。

この年「免許」というものを生まれて初めて取りました。

本当は1年次に車の免許を取るところでしたが、全然興味が湧かずに「小型自動二輪」の免許を取るため、教習所へ行きました。

それまで何ヶ月か、バイクのカタログばっかり読んで、バイクに乗る事ばかり妄想していましたが折しもそんな時「爆走!ドーベルマン刑事」という1980(昭和55)年に放送されたバイクに乗った刑事集団のドラマの再放送があり、これが完全な引き金になりました。

教習所ではちょっと苦戦して、何時間か延長教習を受けていましたが、教官により当たりはずれ?はあるなと感じたものでした。中型(現在の「普通二輪」)にする気もなくもなかったけど、「小型でいいや」という感じで取りました。卒業検定は逆走したり、急制動がギリギリだったりドキドキものでしたが、なんとかパスして自動車学校を卒業、その時の解放感ったらなかったな、という感じでした。

いざ免許取りに試験場へ!と乗り込みましたが、学科試験が89点で不合格、2回目でやっと合格しました。これは後に受ける普通免許の時も同じ形で2度目のパスとなってしまいました…

晴れて取れた自動二輪(小型)免許!取れるやすぐに親へ電話したのを覚えています。そしてこの時受検した島根県松江市の「古志原免許センター」は程なく移転する事となります。とにかく10代のうちに免許が取れました。

生まれて初めてゴルフをしたのもこの年でした。といっても大学の体育の授業で、打ちっぱなし(ゴルフ練習場)へ行ってひたすら打つというものでした。野球のバットの構えで打っても全然ダメで、球が上がらず飛ばずでした。大人になってラウンドしてもその癖は直ってませんが…。結局10回近く練習場でただ打つだけをやってて、この時以来25年以上クラブを持つ事すらなく、2017(平成29)年にゴルフコンペに参加する(させられる?)まで、実に27年もゴルフから離れていました。結局、この時はやってても全然楽しくなかった訳です。

免許の話に戻して、取得後はバイクの物色ばっかりしてました。金がないので中古一択でしたが、地元へ帰って今ではメジャーになりましたが当時まだまだマイナーだった「レッドバロン」へ何度も足を運びました。その末、約8万でローンを組んで(月8,000円位)購入しました。親からの仕送り額がその分減ってという形で。スズキのアメリカンバイク「GN125E」という今でも海外でつくられたりしているものでした。

  生まれて初めて買った愛車

0002

バイクを買ってからというもの、毎朝のように朝4時台に起きては、近所の農道を含めて10kmぐらい走って、くたくたになって帰るのが日課のようなものでした。田舎で早朝なら交通量が皆無だったので、
夏休みに入ると、走って帰ってきて少し寝てからバイトへ行くのが日課でした。普段の定期バイトをしてなかった分、毎年夏休みには働く時間をとって、前年は地元へ帰省してバイトしていましたが、この年と翌年は下宿先の近くでバイトしてました。
今は亡き島根県土質技術センターというところで、土の実験手伝いのような特殊なバイトをしていましたが、土と水を「比重びん」というものに入れたり、土をだんだん目の細かい「ふるい」にかけたり、全体にほのぼのとした感じの職場で、途中の休憩でお茶菓子食べたり、こんなところで働けたらいいな、という感じでした。時給が550円だったという事だけがちょっとアレでしたが…。夏休みの平日はほぼフルタイム、このバイトにいそしんでいました。
昼休みは外へ出て、大学の学食で食べたり、少し離れた喫茶店へ食べに行ったりしていました。この辺はちょっと離れたらすぐ、すごい田舎へたどり着く(笑)ので、全然違った雰囲気で喧騒を逃れた感じになります。

大学時代のそれまででは県外へ出る事は帰省以外ありませんでしたが、バイクを得た事で初めて県外へ出て走ったりとか、まさに「世界が広がり」ました。出雲大社へもこれにより初めて行きました。鳥取県の境港へ行った時は当時あった「中浦水門」がせり上がるのを見ながら待っていたりしていました。
そしてなんといっても実家への帰省で約250kmの道のりを下道のみで走りました。これは何度かしていますがいつも命がけで、クッタクタになり、これを初めてやったこの時も勿論そうでした。実家から戻る時に、慣れないトンネル内で怖い思いをしながら走ってて後ろから強引に車に抜かれた時は、生きてて最大に「死」を感じました。これ以降この道は一度も走っていません(笑)

 バイトの昼食に行った喫茶店のマッチ

Kimg1491

秋は20歳の誕生日を迎える頃から、大学のイベントの準備に全力投球していました。1年次の時に参加してすごく楽しくてハマってしまい、2年目も!という事でそのまま居つく形で残留して参加していました。
が、後輩を迎え入れて益々楽しいはずのところが、すごく空回りしてしまい、立場も変わって1年目みたく純粋に楽しめなかったけど、この経験が後に生きました。当時はもがき苦しみ、この活動を2年で辞めようと思っていましたが、意外なところから続ける事となりました。この時に人の縁とか、自分がどう見られていたか色々知りました。

2年になった事で、授業が一般教養から専門科目が増えたのが楽しかった面もありました。大学1年までって一般教養の授業がメインで専門が少なく、ほぼ高校までの授業の延長上、という感じでしたが、専門科目の講義が増えた事で「学問してる」という感覚になれました。
大学の授業って、それまでと違うのは「受験のための勉強をしない」のがもっとも大きいですね。それこそ、その学問を突き詰める、という感じで。

次は、この年に見ていたテレビについて書いていきます。

« 生活と思い出と世の中と(1990年①) | トップページ | 生活と思い出と世の中と(1990年③) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 生活と思い出と世の中と(1990年①) | トップページ | 生活と思い出と世の中と(1990年③) »