2025年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

« 生活と思い出と世の中と(1989年⑤) | トップページ | 生活と思い出と世の中と(1988年②) »

2023年7月18日 (火)

生活と思い出と世の中と(1988年①)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。49回目は1988(昭和63)年の第1回です。

令和から始まり、平成もずーっと振り返ってきて、元年まで来て、いよいよ昭和の振り返りに突入しました。

まずはこの年のニュースを絡めて振り返ります。

 

通年で昭和だった最後の年になります。

 

●ニュース

・青函連絡船の廃止、瀬戸大橋の開通

 昭和の終りと平成の初めって何が違うの?となると色々ありますが、分かり易いのがこれらの出来事でしょう。

 航路でJRの路線としてつながっていたものが陸続きとなり、北海道と青森、また本州と四国が鉄道路線で繋がる事となっていった事。平成はそれまであった航路が色々となくなっていった時代でした。今はもう宮島くらいで、主な航路のJR路線は無くなってしまいました。古き良きフェリーの栄えた時代でした。

 

・東京ドーム開場

 巨人・日本ハムがそれぞれ本拠地としていた後楽園球場に代わって3月に開場し、日本初のドーム球場として、雨でも中止することなくゲームが行われるという点が大いに話題になりました。「ビッグエッグ」の愛称がつけられ、よく言われていましたが、程なく全く言われなくなっていました。

 初ホームランはヤクルトのデシンセイ選手でしたが、その後戦力になり切れなかったのは残念でした。

 翌月には美空ひばりさんの伝説の復活コンサートが開催されました。女王の復活、として大いに話題になりましたが…、この約1年後に亡くなる事になります。今思えば最後の力を振り絞った場だったのですね…

 

・新幹線の新駅が続々開業

 東海道新幹線で、新富士、掛川、三河安城、山陽新幹線で東広島、新尾道と多数開業したのがこの年でした。正直あまり利用が多いとは思えない駅ばかりでしたが…、それも新幹線単独での駅が多かったのも要因かもしれません。掛川駅の新幹線開業については、この数年後個人的に大学のゼミの初レジメ作成で取り上げた内容でもあり、思い入れがあります。

 

・リゲイン発売

 今も生き残っていますが、三共のリゲインとして発売され始めた年でした。2年後に牛若丸三郎太として「リゲインのテーマ」なる楽曲まで出てカラオケでよく歌われていましたが、当初から時任三郎さんがイメージキャラクターで、最初から「24時間戦えますか?」という、今の時代には到底使えないフレーズが前面に出ていました。当初は時任さんが当時出ていた「あきれた刑事」のキャラに近かった感じでした。

 

・日産セフィーロ発売

 井上陽水さんが車を運転し、車窓から「みなさんおげーんきですか?」と語りかけるCMが当時高校生だった我々にも大変印象的で話題になりましたが、天皇陛下のご病状が報道され続けるにつけ、非難の対象となっていき「自粛」される格好となり、この頃からとかく「自粛」の向きが強くなっていった感がありました。

 

・巨人吉村選手重傷

 毎年巨人が遠征している「北海道シリーズ」のデーゲームで、守備機会時にチームメイトと交錯し重傷を負いました。動けてなかったので、ただ事ではないとリアルで見てて感じましたが、後で思っていたよりも重傷と分かり、それまで巨人で最も順調に数字をあげていて「3000本打てる」とすら言われた事もあっただけに大変残念でした。翌年秋に奇跡の復活を遂げますが、それまでのリハビリは相当に過酷で、また復帰後はさすがにかつてのような飛ぶ鳥を落とす勢いの活躍はできず、やはり残念でなりませんでした。

 

・オリンピックイヤー

 冬はカナダのカルガリー、夏は韓国のソウルで開催されました。この時期はまだ、夏冬同じ年にオリンピックが開催されていました。

 ソウル五輪は体操の池谷・西川コンビが大フィーバーで、池谷幸雄選手は後にそこからタレント活動へとシフトしていきました。

 

・私鉄大手球団の相次ぐ身売り

 南海はダイエーに、阪急はオリックスにそれぞれ身売りを行い、翌年から別球団としてスタートを切りました。これが昭和の終りというのは時期的に偶々だったと思いますが、平成の初めからそれぞれ新生球団がスタートし、まさに時代の変わり目でした。

 今でこそオリックスは名だたる企業でしたが、当時はオリックスって?という感じで、「ああオリエントリースって何か聞いたことある」という程度でした。

 オリックスは当初西宮で変わりませんでしたが、ダイエーは大阪から九州の福岡へ移転となり、平和台球場を本拠地とするという事で、1978(昭和53)年にクラウンライオンズが西武として所沢へ出るまで本拠としていた福岡に、11年ぶりにプロ野球団が帰ってくることになりました。この大型移転もあり、南海からダイエーになる頃は大きく戦力も変わりました。

 

・高知学芸高校修学旅行先での死亡事故

 修学旅行先の中国・上海で教師生徒含め27人が死亡するという、当時同じ高校生として痛ましい以外に言葉がなかった出来事でした。

 

・「となりのトトロ」公開

 ジブリ映画隆盛の火付け役となりましたが、当初はまだ単発のヒット作という感じで、その後ジブリ映画が長く制作されてヒットし、またこの作品自体が今でも誰でも知ってるレベルのとてつもないロングヒットになっていますが、当時からするとこんなになるとは思いもよりませんでした。これまでだと同系統の作品では「風の谷のナウシカ」や「少年ケニヤ」ぐらいでした。

 

・天皇陛下のご容態

 秋口からご重態として、脈拍、血圧、呼吸数などが連日報じられ、輸血があったとかそんな状況も連日報じられる中で色々なイベントが「自粛」されていきました。

 まさに時代の変わり目の真っ只中にいる感がありました。長い昭和という時代は、当時もう60年以上になっていた訳で。。

 

・ベトちゃんドクちゃんの分離手術

 下半身がつながった結合双生児のベトちゃんドクちゃんは、その繋がった状態の時期からよく報じられて有名でしたが、ベトちゃんの脳に障害が判明し、下半身の分離手術が行われ、まさかと思いました。ベトちゃんはその後26歳で亡くなりましたが、ドクちゃんは現在も御存命です。

 

・10.19

 プロ野球パ・リーグの優勝を争うダブルヘッダーとして現在でも語り継がれる名勝負です。この時生で見ていましたが、ロッテの有藤監督の猛抗議でゲームが中断し、その後にも影響しましたが、結局は近鉄の優勝が消滅しまたも西武の優勝となりましたが、翌年近鉄は雪辱を果たすこととなります。

 

・最後の「ゆく年くる年」

 現在でもNHKでは年の変わり目に紅白歌合戦の終了後、急に静かな雰囲気になって放送されていますが、昔は民法全局が同じ「ゆく年くる年」を年の変わり目に放送していました。昭和最後となるこの時が最後だったのですね。

 

« 生活と思い出と世の中と(1989年⑤) | トップページ | 生活と思い出と世の中と(1988年②) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 生活と思い出と世の中と(1989年⑤) | トップページ | 生活と思い出と世の中と(1988年②) »