群馬県みどり市、JR岩宿駅からの歩き旅です。
(2012年10月当時)
●史跡めぐりコース
として岩宿駅前に大きな看板が立てられていました。
その名の通り、岩宿遺跡はあまりにも有名ですが、他に岡登(おかのぼり)用水というものが紹介されています。江戸初期にこの地を治めていた幕府の代官・岡上景能(おかのぼり・かげよし)という人物が開削したとあります。
●昭和の史跡?
駅の真ん前で早速史跡に巡りあいました(笑)
いかにも昭和遺産!なこれらの自販機、わざと?というぐらい堂々と残されていました。いいですね、こういうのはずっとそのまま置いといてほしいものです。
このひとつの自販機あたりの種類の少なさが昭和ですよね。
ジュース自販機のサビ具合もさることながら、たばこの自販機の上は屋根があったようですが、ビリビリに破けて骨組みが剥き出しになり、時の流れを感じさせます。
●笠懸マンホール
この岩宿の現在の自治体名は「みどり市」ですが、2006年までは「笠懸(かさかけ)町」という人口27,000程の郡部でした。平成の大合併で、群馬県で新しくできた唯一の市が、みどり市です。
これは郡部時代のものと思われますが、疾走する馬に乗って矢を射る伝統行事の「笠懸」が全面的に描かれています。源頼朝がこの地でこの笠懸を行った事に由来するといいます。
同様のものとして「流鏑馬(やぶさめ)」がよくいわれますが、流鏑馬と比較して標的が多彩で、難易度も高いが、格式としては低く、より実践的なもの、とされているようです。
馬の顔が正面から書かれているのが、なんかかわいらしいですね(笑)
●笠懸郵便局
岩宿駅から直進して程無く「岩宿駅前」の交差点があり、これを左折して程無い地点にこの「笠懸郵便局」があります。
小さい局ですが、市内の本局的な所といえば、旧所属自治体の事なる大間々(おおまま)郵便局(旧・大間々町)のようです。
●音…
上の写真の道を少し歩いて右へ曲がって、しばらく歩いて行く途中にペット店?がありましたが、そこでの動物の鳴き声が凄まじかったです。辺りがそれほど密集している訳ではないとはいえ、横を通り掛かるだけで相当なものでした…。
●学童安全
先ほどの自販機といい、ここは色々古いものがそのまま残っていて嬉しい、そんな覚えも少なからずあり、ここみどり市の歩き旅の思い出の多くを占めています。タイトルの「岩宿メモリー」は、元アイドルにして現相撲部屋の女将となった高田みづえさんの末期の曲「原宿メモリー」をもじったもので、先日彼女が「徹子の部屋」に出ていたと聞き、タイトルにて拝借致しました
脱線しましたが、看板の下部に店名があり、もうないだろうと調べたところ、今もあるようです。これまた旧・大間町内のようで。
しかしいつも思うのが、この手の看板っていつ頃つくられたのか??という疑問です。
いくら調べても、その辺りの回答になるようなものが出てきません。昭和30年代なのか40年代なのか…、50年代の絵センスではないと思うのですが、その頃でもこんな絵でつくられていたのか…本当に謎です。車の普及度と絵センスからすると昭和40年代が妥当なのでしょうか…。
●岩宿遺跡ごあんない
岩宿駅から何度か曲がって1kmあまりになるでしょうか、駐車場への標識や地図の案内が現われてきました。
みどり市ではまず岩宿駅に行って、岩宿遺跡を見れるなら見ようと思い、ここを目指して歩いてきたのでした。
岩宿遺跡は、琴引山と稲荷山という2つの山と三つ又になる形で存在しています。
●岩宿遺跡A地点
この場所は、日本で初めて、関東ローム層から石器が出土したという記念すべき場所です、という旨が看板の冒頭に書かれていました。
この遺跡が発見されるまでは、日本の文化は縄文期が最古と思われていたのが、旧石器時代が日本に存在した事が証明され、この発見により日本文化の始まりが1万年以上も遡る事となった訳です。ここで遺跡が発見されなかったら「はじめ人間ギャートルズ」もなかったかもしれません(笑)
●岩宿ドーム
遺跡の案内板の説明に、岩宿ドームとあったので、「有名な遺跡があるからって、そんなすごい建物(ドーム球場的なイメージ)をつくったのか?」と思ったのですが、これが岩宿ドームでした。A地点とは道を隔ててすぐ向かいにあります。
岩宿遺跡の発見で有名な相沢忠洋氏の最初に発見した地層(B地点)の風化を防ぐためと、史跡の活用のためにつくられたといいます。
●相沢忠洋氏像
日本の歴史を一万年分広げた張本人、といっても良いぐらいの人物です。
1940年代後半、独学で考古研究を進め、関東ローム層から石器を発見したとして考古学者を訪ねて回るも、まともに取り合ってもらえなかったといいます。関東ローム層の年代は激しい噴火の為、人間が生活できる環境になかったはずである、という考えがそれまでの常識であったようで。
その後大学の助教授等が石器を見せられ、その重大性に気づき、調査に乗り出し、日本の歴史がグッと遡った事となりました。しかし彼の存在自体は、学会や報道でほとんど取り上げられず、むしろ批判の対象になったり、色々と揶揄される事も多かったといい、素晴らしい発見をしたにもかかわらず、長い間苦汁をなめた、そんな感じを見受けます。
それでも考古の研究を続け、岩宿の発見から10年以上を経た1960年代に入って、群馬県からの表彰や吉川英治賞を受賞するなど、ようやく彼の功績が認められるようになったといいます。
1989年に亡くなり、笠懸村から名誉村民第一号として表彰されました。当時の笠懸はまだ「村」で翌1990年に「町」になり(つまり名誉「村」民としても1年だけ?)、16年後に合併でみどり市となります。ここがつい1990年まで村であった事にも驚きました。
●岩宿人の広場
緑いっぱいの広大な敷地の中に、世界各国の旧石器時代の復元住居が点在したスポットです。
この入口からは、緑のテントがあるだけでなんにもないように見えるのですが、とりあえず奥へと進んで行きました。
●2万年前の住居跡
ここのものではなく、大阪府藤井寺市の「はさみ山遺跡」という所の復元住居だそうですが、ここが岩宿人の広場である事から、見合うものとしてつくったのでしょうか。
下側が中に入ってみてのカットです。
6×5メートルの半円で、屋根は動物の皮などで覆っていた、とありました。
はさみ山遺跡自体は、1986年に発見されたとありますが、当時この藤井寺を本拠地としていたプロ野球「近鉄バファローズ」の捕手であった梨田昌孝氏(今季より楽天監督)の自宅建設予定地であったそうです。
●マンモス骨の住居
こちらはウクライナのメジリチ遺跡という所のものですが、約1万5千年前の住居跡で、なんとマンモスの骨でつくったものとありました。この遺跡でそのような住居跡が5軒見つかったそうです。
この辺りでは寒い冬を過ごす洞窟が少ない為に考え出された、といわれていますが、この家を建てるのに100頭近くのマンモスの骨が必要という事で、そんなにもマンモスを倒していたのか?と思わされたものでした。この住居も屋根は動物の皮などで葺かれていたとされています。
●おいしい焼まんじゅう
遺跡エリアの近辺のちょっとした飲食コーナーらしき所です。
何気なく「焼まんじゅう」の文字を受け入れてしまいましたが、これ群馬県の郷土食で、かつて「秘密のケンミンSHOW」でも取り上げられていたのを覚えています。この時は朝早かったのでまだ開いていませんでしたが、食べたかったです…
岩宿遺跡あたり、そんなに観光客で賑わうという感じでもありませんでしたが、色々と吸収して楽しむ事ができる場所ではないかと、思います。日本の歴史が広がった街、と思って見てみては…と思いました。
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